謎の 神宿 を訪れる!

神宿 (かみじゅく)は岡山最高レベルの謎ゾーンだ!

神宿

今日は念願であった、神宿と平福を訪れた。湯郷を過ぎて林野を作東町方面に右折する、5kmほどで平福郵便局がありそのちょい手前の信号交差点のさらに100mほど手前の山側の斜面が平福の陶棺で有名な野寺山古墳のあった場所だ。まさしく「あった場所」としかいいようのない状態で地元の墓地の上に写真のような説明看板があるのみである。

神宿

看板の文面「野寺山古墳」

「明治29年に陶棺が出土した。陶棺は赤色の地膚で切妻造屋根型の蓋をのせた長方形で前面に浮彫りされた絵は牧歌的な雰囲気が伝わる数少ない古墳後期の貴重なものである。この陶棺は現在東京国立博物館に展示されている。」

展示されているかどうかは確認していないが、所蔵されているのでリンクの写真をご覧いただきたい。

この平福からくだんの交差点を北上して姫新線と中国道を越えたすぐのところが神宿だ。まずは紙老虎的世界のこのページを参考に一読していただくとよく解る。このように深く「中山」について考察していることには、おおいに敬意をはらいたい。特に(3)のページにこの神宿についてのリポートがあり、これを体感したいがための今回の訪問である。この集落には写真のような独特の小さな社殿のような建物を庭先に持つ家が数件あり、すべて東内(藤内)家である。以下、紙老虎的世界内の「作陽誌」の引用をさらに引用させていただく。

鉾殿この東内家の殿舎?その姿と「中山太神宮」の札から,一見「中山神社の元宮」ではないかと思ってしまうのだが, 実は神そのものではなく矛を祭るための特別施設なのである。

藤内家書記如左 是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。 先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者 先年(神の)御宿を申し候につき, その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。 六郡の内‥‥云々‥。  
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。 棟を別にして方二間半ばかり。 藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。

矛殿に関する『作陽誌』の記述
夏秋二度初穂取六家
藤内日向(受領の家) 藤内源太郎 藤内長大夫
藤内勘大夫 (受領の家) 藤内主計 藤内三大夫

一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。 その祭祀最も奥秘の神事とす。 世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。 その法は石基を四方と中央に安して, 各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う。 そ の中央の石今苫南郡小原に遺る。この村の藤内家,五家有りて各矛殿を斎き祭るは, 所謂(いわゆる)五座の鉾にして,そのことに預かる務 めあるゆえ,すなわち己の宅に矛殿を勸請したるなるべし。 ‥云々‥。

作陽誌(上)  昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。 藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。既にして神苫田郡霧山に入る。
作陽誌(下) 山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留 同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記   昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥云々‥。
津山市史(1)中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。この神を斎き祭ったの楢原の東内氏であり,東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。それより以後東内氏は東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り,云々‥‥。

中山大明神文武天皇慶雲三年というのは西暦706年(飛鳥時代末期)なのだが、この年この楢原邑(神宿;神さまが逗留したから)に中山神が現れて、4ヶ月後には津山に移動したという。そしてそこが現在の中山神社というわけだ。その中山神社に伝わる奥義に5本の鉾を祀る儀式がありその鉾を収蔵管理しているのが楢原の東内家というわけである。しかし、そのことを東内家(写真の鉾殿のある家)の大奥様に尋ねたところ「今は何もしておらん」という不可解な返事であった。簡単には信じられないという印象を持った。ちなみに「なかやま」ではなく「ちゅうさん」がオリジナルの発音である。

中山大明神 鉾殿

カテゴリー: 未分類 | 謎の 神宿 を訪れる! はコメントを受け付けていません

三原竹原の中間 黒滝山の絶景

黒滝山から瀬戸内海を見る
展望台より望む

この山は広島県竹原市忠海町の瀬戸内海を望む位置にある、奇岩屹立する標高266mのこの黒滝山には、観音堂や33体の石仏があり、登山遊歩道や頂上からの眺望はすばらしく、眼下には大久野島、芸予諸島、世界最長の斜張橋多々羅大橋、遠く四国連山を一望できる。山頂の観音堂は、天平年間(730)僧行基の創建と伝えられ観音堂内の十一面観音像は鎌倉時代の名作とか。

車を民家脇の坂道に停めて登り始める、どこにも案内板のようなものがないのでしかたなかったが、もう少し上にゆっくり停められる場所はあった。よく整備された道を登ること15分ほどで見晴らしの利く岩場にでる、ここから頂上付近がみえる、もう一息登るとしばらくで尾根にでる、右に行けば広場で大きな石碑があり、左に行けば黒滝山山頂であった。かわいらしい鎖場があって頂上の大岩にたどりつく。そこからの瀬戸内の景色は想像どおりのすばらしさである。

帰りは尾道と御調の中間あたりにある原田温泉の「ゆう神の湯」というなかなかひなびた温泉をみつけたのでいってみた。これがなかなかの掘り出し物で放射能泉の掛け流しのよいお風呂だ。わたくしランキングでも5本指にはいるお気に入り!また近々に訪れることにしよう。

瀬戸内海

カテゴリー: 登山 | 三原竹原の中間 黒滝山の絶景 はコメントを受け付けていません

角ガ仙は以外と……….

角ガ仙は以外と難しい 09-Spt. 17
角ガ仙登山口付近

ひさしぶりに岡山百山の未踏峰に挑戦することにした。本日の目的は岡山のマッターホルンこと角ガ仙(つのがせん)だ。津山院庄ICから北へ179号線を越畑へ向かうのだが本日は奥津経由笠菅峠まわりで越畑に到着した。ここから越畑キャンプ場(現在閉鎖)をめざして4~5分ゆくと駐車場である。登山口はキャンプ場の広場をつっきって調理棟の左奥にある。ほとんど人が来ていないせいか道がわかり難い。右の写真はよく紹介されている登山口付近の階段風景でいかにもよく整備されてわかりやすい印象があるが、実際にはそうでもない。

急勾配

かなりの急勾配で階段がつづく、すぐ息があがってしまう。しばらく登山もご無沙汰で心配していたが、そのとおり足が前にすすまない。山登りを始めた頃に戻ってしまっている、家内がどんどん先にいってしまう、きょうは笛も忘れてきた「お~~~い!」

普通、急勾配をすぎると緩斜面となるもんだがここはちがう、さすが「マッターホルン」だ、あまり人がこないのも理解ができる。1時間ほどやすみやすみ登っているうち、この苦しさにも慣れてきたようでなんとか足も動いている、やっと頂上の三角錐が見えた。ところがこのあたりからがまた一段ときびしかった。目の前に頂上がみえるのだが実はここから大きなアップダウンが続く、目の錯覚だ。横から見ると駱駝のこぶのように小さな山があるのだが、縦位置から見ると直線的に勾配が頂上までつづいているように見えた、繰り返しになるがここからが厳しかった。

頂上

1時間50分かかってついに頂上に立った、通常の参考所要時間にたいして30分は遅れたが無事登れたことがなによりである。さっそく「つるや」で仕入れた弁当で舌鼓をうち、一休み、やっと立ち上がる元気もでたところで記念撮影をしようと周りを見回すとびっくりするものを見つけた。角ガ仙の柱のうしろに寄せ書きされた布が枝に留められているのだが、なんとそれが保育園児のものであった。岡山市内の白鳩保育園のお泊り保育の登頂記念でもちろん大人がたくさんサポートしているにはちがいないが、「ここが県内で一二の険しさだ」と思っていた私には強烈なパンチであった。

白鳩保育園の寄せ書きの前で

カテゴリー: 登山 | 角ガ仙は以外と………. はコメントを受け付けていません

勝山 一心庵

勝山 一心庵
一心庵

勝山駅を過ぎて湯原方面に右折するとすぐにこの蕎麦屋はある。となりは木材ふれあい会館で行きすぎてしまいそうだが、次がスーパーマルイなのですぐわかる、そのときは戻ろう。外からみるとなんの変哲もない店なのだが、中に入るとなかなかの店だ。

石臼挽きの手打ち、熟練のそば打ち技術はもちろん、この店のこだわる点が、自らの人脈を駆使し、得た情報から仕入れるというそば選び。ここのそばを食べたいと全国のそば通に言わしめる名店ということらしい。

一心庵花

岡山県真庭市三田131(勝山木材ふれあい会館内) 火曜定休
二八ざる蕎麦 ¥700
十割(生粉打ち) ¥900
辛味大根おろし蕎麦 ¥850
淡雪(山かけ)蕎麦 ¥950
鴨ざる蕎麦 ¥1100
天婦羅ざる蕎麦 ¥1500
かけ蕎麦 ¥700
鴨南蛮蕎麦 ¥1100
京にしん蕎麦 ¥900

値段が変わってたらごめんね!

奥の部屋のひとコマです

カテゴリー: うまいもん | 勝山 一心庵 はコメントを受け付けていません

安芸の宮島名物「あなごめし」

「あなごめしのうえの」にはいつも行列が
あなごめし

広島から岩国方面に30分ほど行くと宮島口に到着する。名店「うえの」は海を渡る手前のこの街にあるのでとても助かるが、いつも休日に行くせいか1時間待ちが基本である。店の裏に駐車場があるのでそこを利用しよう、最初のころはてっきり駐車場はあってもいっぱいだろうからと近くの有料Pに停めたのだが以外にも空いているのだ。(皆がそう思うからだろう)

皆、狭い入り口付近に肩をよせあい並んでいる、うえの別棟心配せず名前を告げた後は別棟の民芸モダンの部屋(写真下)にいって雑誌でも読みながら待つのがよい。そうこうしていると呼び出しが聞こえる。席につくとたいがい相席であるが、今回も遠方からみえた若いカップルだった。しばらく旅の話に花を咲かしていると、おめあての品が登場する。味が申し分ないのはもちろんだがその器や盛りつけがいっそう上品に感じさせる。三島のうなぎも旨いが広島のあなごもいける。

あなごめしのうえの

カテゴリー: うまいもん | 安芸の宮島名物「あなごめし」 はコメントを受け付けていません

津山のイタリアン Cielo

津山のイタリアン Cielo

53号線の津山駅をすぎて吉井川沿いに右折してしばらく進み左に入ると津山の古い町並み(城東町並み保存地区)がある。その一角にある築100年以上の町家を活かした本格イタリア料理の店がCieloだ。
境港より、毎日送られてくる魚や地元のとれたて野菜、肉は朝じめされた地元の桃太郎地鶏などの食材をふんだんに使用した、店主こだわりのお料理がいただける。



住所   津山市西新町8番地
TEL 0868-23-2021 FAX  0868-23-2021
※予約制ではないが、満席になってしまうことがあるので予約をした方がベター
営業時間 ランチ/11:30~14:00  ディナー/17:30~21:00
休日 月曜日
座席数 ランチ/15席
ディナー/12席
駐車場 専用駐車場3台有り
平均予算 ランチは1,000円~1,800円くらい
ディナーは5,000円くらい

map

カテゴリー: うまいもん | 津山のイタリアン Cielo はコメントを受け付けていません

神戸の巨大古墳 五色塚古墳

五色塚古墳 09 June 16

五色塚古墳 俯瞰図

五色塚古墳 (ごしきづかこふん)は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目にある、兵庫県下最大の前方後円墳。別名「千壺(せんつぼ)古墳」。築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。墳丘は前方部を南西に向けた3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18mで、墳丘は葺石で覆われている。山陽電車と日本国有鉄道(現JR)の路線建設までは前方部が現在より3倍位の長さで、古墳全体の長さが300m以上にも及ぶ大型古墳であった。

「 五色塚古墳 」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。

『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。(Wikipediaより抜粋)

円筒埴輪レプリカ

なかなか判り難い場所にあるのだが、写真でわかるように明石大橋の望める場所なので、地図をたよりに住宅地を通ってたどりついた。年代やその造り大きさから、岡山造山古墳と同系の古墳なのだと思う。広島の三ツ城古墳を含めたこの三つの大古墳は河内の大古墳に通じるものだと強く感じる。この日は天気もよく、少し霞んではいるが淡路島を遠望できたので、ピックニックとしても楽しい経験だった。この後、神戸私立博物館に国宝桜ヶ丘銅鐸(どうたく)・銅戈(どうか)を見にいったのだが、特別展示の入れ替えとやらで入れなくとても残念!(篤姫ゆかりの薩摩切り子展にはあまり興味はないが、常設展示も入れなかった!くぅ??!)ということで、「元町でShoping」&「南京町で四川料理」の規定路線に向かった。

墳頂の埴輪列より明石海峡大橋を望む

カテゴリー: 未分類 | 神戸の巨大古墳 五色塚古墳 はコメントを受け付けていません

青谷上寺地遺跡

青谷上寺地遺跡 (あおや かみじち) 09 May 7

青谷上寺地遺跡 頭蓋骨

青谷上寺地遺跡 とは、鳥取県の鳥取市から9号線を20kmほど西に行った青谷という地区にある。国道から少し内陸にはいった処だが、国道バイパス工事に伴い発掘がおこなわれ、現在は埋め戻されている。そしてその近くに大変質素だが好感の持てる「青谷上寺地遺跡展示館(無料)」がある。

出土品には、多量の土器をはじめ、容器や建築材などの木製品、漁撈(ぎょろう)具や装身具などの骨角製品、工具類などの鉄製品や石器などの多種多様なものがみられる。これは、遺跡が低湿地にあり、厚い土の中で真空パックの状態に置かれていたため、その残り具合が大変良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といわれている。

さらに、青谷上寺地遺跡の弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流している。九州系や北近畿系、吉備地方の土器、石材もこの近辺の石材だけではなく、新潟産のヒスイや瀬戸内産のサヌカイトなどが使われている。また、360点を超える鉄製品や、古代中国の貨泉(かせん)が出土したことによって、海を渡り北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との交流も行われていたことが想像できる。このことは、青谷上寺地遺跡が単なる村ではなく、海上交通の重要拠点だったということだ。

遺跡の東側の溝では、弥生時代後期の約5,300点の人骨が見つかり、中には110点の骨に殺傷痕(写真)が見られた。これは、平和に暮らしていた村が、一気に奇襲攻撃をされて乗っ取られたことを意味している。通常の戦争であれば、順々に墓に埋葬するだろう。つまりこれは異文化の侵略であり、この青谷がいかに重要な拠点であったかという証明でもある

琴 側板

さて、左の写真は「木製の琴の側板」で弥生中期後葉というから、この村の滅亡前の幸せな時期のものである。まず、この模様に注目して頂きたい。なにやら四つ足の動物が描かれている、みなさんにはいったい何に見えるだろうか?角がぐるっと回っている動物といえば、私には「山羊か羊」にしか見えないのだが、この動物をある程度特定している文書はない。なぜ羊でないかといえば「この時代(弥生)の倭国に羊は存在しなかった!」ということなのだろう。しかし、そんな単純なものだろうか?前々項でも触れたようにこの時代の中国にはシルクロードを通じて多くの外国人(ユダヤ)が絹を求めて出入りをしていた。そのユダヤ商人が絹や不老不死の薬を求めて足をのばし倭国まで来ていたことは、そんなに大層な想像力を働かさなくても解る。そう、羊はユダヤ商人にとって神の使いなのだ。

この青谷の地から西へ10kmほど行くと東郷池があり、その水面を望む小高い丘に伯耆一宮の「倭文神社』がある。さらにその先の倉吉の志津にも倭文神社(三宮)が、そして山を越えて南下すると美作久米の倭文神社へと続く。つまり当時の文化最先端地である出雲、吉備の倭絹(倭文)を集荷して青谷から半島へ出港するというそんな絵が浮かんでくる。

カテゴリー: 未分類 | 青谷上寺地遺跡 はコメントを受け付けていません

大江山 皇大神社

皇大神社 (こうだいじんじゃ)大江山 09 May 6

皇大神社

皇大神社は酒天童子で有名な大江山の南麓にあり、籠神社と同様に元伊勢を名乗って天照大神を祀っている。ちなみに「皇大神」とは「天照大神」のことである。伝承によればアマテラスはこの丹波でなくなり、その亡骸は、皇大神社の付近に葬られているという話もある。とすると元伊勢というより、大元伊勢といってよいかもしれない。昨日、宮津から与謝野町の「丹後ちりめん歴史館」を訪ねた後、大江山グリーンロッジに宿泊した。あとでわかるのだが、歴史館の近くに全国でも数のかぎられた倭文神社がある、つまりこの地域には古代から絹産業が存在した証拠だ。翌朝、たっぷりと朝ごはんをいただきさっそく出発した。山道を数分下ると、本日の目的地の皇大神社に到着した。

昔から参拝客の多いこの神社の参道にはみやげものやや旅館が立ち並ぶがいまは人通りもなくさみしい空気がただよっていた。入り口からゆるやかな階段がしばらく続く、なかなかの社格を感じさせる古社の趣だ。その清涼とした空気感は伊勢神宮にちかいものを感じる。写真の拝殿の前にたどり着くと、左側の階段から十名ほどの白装束姿の人がむしろをもって現れた。やはり多くの信者さんがこのようにお参りにくるのか?彼らは拝殿の前に座りこんでなにやらお祈りをはじめた。我々のようなたまの参拝者にはお参りしにくい状況である。

新興宗教

お掃除をされていた方に「いつもこのような信者さんがこられるのですか?」とたずねると「時々、現れる大阪の新興宗教の一団」という返事であった。ものの本(HP)によると、古代より皇大神社一帯は聖地とされており、明治以後、聖地としての色合いは一層鮮明になる。かの大本開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊勢と崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行ったといわれており、多くの神道系新興宗教が聖地とあがめこの地へのお参りをおこなうのだそうだ。

明治末期、籠神社がそうであった様に、皇大神社においても社格昇格運動が起こったそうで、運動の中心的存在として活躍された脇田房蔵氏(元河守上村長)は、皇大神社周辺の口碑調査をメモにして残されているそうだ。その中に『日室ヶ嶽(岩戸山)に相対峙する山を高底城山という。高底城とは御陵地の尊名であり、ここは皇大神の御遺骸を納めた地である。』との驚くべき伝承をとどめている。古代史におけるただならぬ場所であることは間違いないようだ。ちなみに田村誠一氏は「天照大神は蒜山(高天原)を出て大江山に移った」とその書物に著わしている。

新興宗教のみなさん

カテゴリー: 邪馬台国 | 大江山 皇大神社 はコメントを受け付けていません

籠神社 これで「このじんじゃ」と読むのです!

籠神社 元伊勢は天の橋立にあるのだ 09 May 5

籠神社

5月連休を利用して念願の籠神社にでかけてきた。由緒によれば「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。」となっている。真名井神社後の伊勢の斎宮にあたる豊鍬入姫命、倭姫命の二代にわたる御巡幸といわれる遷宮が27回おこなわれたという。そのうちのほとんどが美濃伊勢方面なのだが、方向が妙にはずれているのがこの丹波の吉佐宮(よさぐう)(籠神社の元宮の真名井神社)と吉備(岡山市)の伊勢神社(番町)である。

さすがに日本三景だけに、混んでいること混んでいること。予定を1時間OVERで本日の目的地のこの神社に着いた、そして本殿参拝もそこそこに元宮といわれる奥の院「真名井神社」へと向かった。さきほどの喧噪とは別世界の裏道をしばらく行くとその参道を見つけた。鳥居をくぐりしばらくのぼる、若者のグループが先を歩いている、そしてその目的地に到着した。この写真はニの鳥居のそばにある石碑で、一目みてもなんの変哲もないが、これが謎の石碑なのだ。こちらのページ「日ユ同祖論の謎」の一番下の方をご覧いただきたい。これが海部家(神代からの系図が実在し国宝となっている籠神社の宮司家)が最近になって公開した「裏家紋」といわれる「カゴメ紋(六芒星)」である。カゴメ紋は別名「ダビデ王の紋章」といわれ、ユダヤ人のシンボルともいわれ、現在のイスラエル共和国の国旗にも、はっきりと描かれている。今は石碑もこのように左三つ巴の紋に改められているのだが、不思議な話である。偶然の産物であればわざわざ作り替える必要があるだろうか?つまり天皇家が始祖と祀る「天照大神」がユダヤ人(ヘブライ民族)と深い関係にあったのではないだろうか?

このような話は荒唐無稽だと思われるかもしれないが、弥生時代にお隣の中国にはシルクロードを通じて多くのユダヤ人が活躍していたのは疑いようのない事実である。当時の中国(秦や漢など)は我々の想像よりはるかに国際的だったのだ。一説では秦はキリスト教国家であったという説もあるくらいで、日本で秦(はた)といえば絹織物を司る氏族であり、転じて服部氏になったり、京都には秦氏の本拠地ともいわれる太秦(うずまさ)という地名までのこっている。

この丹後地方は言うまでもなく「丹後ちりめん」の産地である、そして神代からの巨大絹生産地だった可能性は極めて高い。またこの日本海に面した港を持つこの地は朝鮮半島を経由して古代中国ともっとも交通の便のよかった地で倭文(和絹)を求めてやってきた多くのユダヤ人商人がその莫大な財力と情報量を武器に倭国(邪馬台国)の中枢に取り入り深い関係を持っただろうことは容易に想像できる。

天橋立

神社由緒によると人皇十代祟神天皇の代に「天照大御神」が大和からここに移動、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢に移動し、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改めたとなっているが不思議ではないか。天皇家の始祖神である「天照大御神」がなぜ大和(奈良)から出て最後には伊勢までいかなければならなかったのだろうか?以前のログにも書いたが、雄略天皇は極めて中国色の強い人物だ。だから籠神社も竹に龍といういかにも中国風な名前になっている。

ロープウェイに乗って展望台のある傘松公園にのぼりお決まりのまた覗きで天の橋立を堪能した。そして丹後郷土資料館を覗くとなんと幸運なことに「海部系図」が展示されており、まじまじと眺めたが中々字が小さくてよく読めなかった。夕暮れもせまってきたので今夜の宿泊地「大江山」に向かった。そういえば「大江山の酒呑童子」もその鬼の姿からすると、ユダヤ人だったのかもしれない。

カテゴリー: 邪馬台国 | 籠神社 これで「このじんじゃ」と読むのです! はコメントを受け付けていません