須佐神社 七不思議のひとつ塩井とは?

須佐神社 七不思議のひとつ塩井とは? 09 Apr.29

須佐神社 塩ノ井

日本一のスピリチュアルポイントとして有名になったこの 須佐神社 の社伝によると「須佐之男命の終焉の地」ということである。島根県のこのあたりの道はことのほか判りづらい、少し迷いながら前回の訪問につづいて夕方となってしまった。神社というものは午前中に参るのが常識とされているのは百も承知しているのだが、これも定めなのかもしれない。

「須佐之男命みずから潮を汲み此の地を清め給う」という謂われが「須佐の七不思議」の一番にあげられる「塩井(しおのい)」が本日の目的のひとつだ。須佐神社 塩ノ井の水日本海が満潮の際、地表に潮の花を吹くという「塩井」。海に続いていて、水の湧き出しに間渇があるのは、海の満ち引きに関係があると言われてる。

常識的には海の塩があがってきたなどという話には無理がある、なんせ海まで10kmの距離があるうえかなり標高もあるからだ。私が考えるのは、塩泉というか「塩分を含む地下水を得る井戸だったのではないか」ということである。長野県の鹿塩温泉では江戸時代まで製塩が行われていたし、日本各地に塩井(熊本、山形、奈良、、、)という地名も残っている、また蒜山高原には塩釜という沸き水があるのはご承知のとおりである。でも、「なぜ山で塩なのか?」ということだが。

実は「塩井」という地名でもっとも有名な処は中国チベットに存在する、NHKの中国紀行の番組でも紹介されていたが、ここは塩作りの町である。また古代中国では「北の海塩、南の塩井」といわれ中国南部というか雲南の製塩技法は塩井であるというのだ。つまり、此の地に居を構えたグループは中国雲南出身だったのではないだろうか。そして蒜山も、また国譲り伝説で健御名方神は諏訪まで逃げ、諏訪神社の祭神になったとされているが、鹿塩もその諏訪の近くであることから同族の居住地であったと考える。

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三瓶山麓に埋没林だ!

連休初日は三瓶山麓に埋没林だ! 09 Apr.29

三瓶山
三瓶山高速ETC1000円を利用して三次経由54号線で 三瓶山 に向かった、ひさびさの本格?登山である。家を8時すぎに出発して12時ごろようやく三瓶自然館サヒメルの裏の駐車場に到着した。Lunchは途中のスーパーで巻き寿司を購入したので山頂でいただく予定だ、腹も減ったので早く登ろう。よく整備された登山道をゆくとさすがに連休、多くのパーティとすれ違う。やっとのことで高度800mの看板までたどりついたが、ひさしぶりのせいか息がきれる。頂上まで高度差200mちょっとだからもうひとふんばりしてみる。だんだん足下がおぼつかなくなるが、1時間20分ほどで登頂に成功した。大勢のひとが頂上広場にいた、特に高校生の団体が学校行事できていたが、別ルートを下りはじめておりそこで渋滞が発生していた。

ベンチで昼食をとりながら、上着シャツを着替え乾かすことにした。いつも思うことだが、この田舎のスーパーの総菜がなんとおいしいことだろう。極上の「山上の昼食」というところだ。三瓶山はれっきとした火山でカルデラというか頂上周囲を縦走することができるが、時間の関係で今回はパスだ。この頂上は男三瓶といってもっとも高いピークである、そこからすこし南にゆくと女三瓶がみえる、なかなか険しそうな道だ。今日は見るだけにして、登り道とはちがう北の原コースを降りることにした。しばらく下り難所がつづく、登りであればどうということはないが、下りの場合、股関節の可動域の関係でなかなか苦しい。若い人が後ろから追いついてきたので「お先にどうぞ」としたのだが、なんとその若者は小走りで下っていった。その様子をみながら遠い昔、山の中を駆け回って遊んでいた自分を思いだしていた。ほとんど麓に近づくと大きなシダがたくさん生えていて「ジュラシックパーク」の趣きだ、しばらく麓の道を回りこんでゆくと自然館がみえてきた。登りとおなじく1時間20分ほどで駐車場までたどりついた。

ここから5分ほど車で下った所に小豆原埋没林公園がある、埋没林とは火山噴火などの急激な自然変化によってたったまま樹木などが埋まっているものだ。全国に四十箇所ほどあるようだが、この小豆原は日本最大級ということらしい。いまから3700年前に起きた三瓶山の噴火によっておきた、「土石流、火砕流」によって埋まったものだ。写真でもおわかりのように大変おおきな杉が主で、その年輪がはっきりとみてとれるので、3700年どころか年輪年代法で1年単位で特定できていてもいいぐらいである?ともかく地下に向かって掘り下げられたこの施設の迫力は大変なものである。石見銀山からもすぐの場所なので、近くにこられたときには立ち寄ることを是非お勧めしたい。

埋没林展示施設の地上部

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鳥取砂丘 世界砂像フェスティバル

鳥取砂丘 は今年、おおにぎわい!?09 Apr.21

ラジオ で 紹介 されていた 世界砂像festivalに午後からの日帰りで出かけてみた。鳥取砂丘 砂像フェス1那岐 を 過ぎ 県境 を 越える と 智頭町 、あとは 一路 鳥取市内 の 北東部 海岸 に 砂丘 は ある。 連休 の 混雑 渋滞 を 回避 する ため 会場 までの 迂回路 が 示され ている。 せっかく なので その 指示に したがって ゆくが 、ほぼ 10km の 遠回り であった。 夕方 の 5時 すこし 前 に シャトルバス で 会場 に 到着、 雨模様 の 天気 は なんとか もっていた。 一般 開放 されて 間 もない せいか お客 はまばら である。 しかし 、 会場 に はいると 10基 以上 の ピラミッド型 の 巨大 砂像 がすばらしい 迫力 で 僕ら を 迎えて くれた。

鳥取砂丘 砂像フェス2

日本人 を 含む 10カ国 の Sand Arttist が 世界中 を サーキットツアー のように 廻って いるらしい。持ち回り かどうかは しらないが、どの Artist も 優勝 経験 をもつ? 優秀 なメンバー である。テーマ は 童話 寓話 の エピソード ということで、 各国 の お話 が 出自 となっているようだ、 右写真 の 帆船 の 作品 が 今大会 の 優勝 作品 でフォルム としては 最も 完成 された 作品 だと 思う。フードコート や お土産屋 さんもあり、 鳥取カレー と コロッケ をいただいた。HP によると 現在 は 入場者数 20万人 を 越えて いるようで 大盛況 おめでとうと 申しあげたい。

優勝作品「さまよえるオランダ船」

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三ツ城古墳 広島最大の古墳 

三ツ城古墳 広島最大の古墳

さて、しばらくお休みしていてすみません。ぼつぼつとUPしていきますのでよろしくお願いします。

三ツ城古墳

今回は広島最大の古墳「三ツ城古墳」の巻である。岡山を出発してまずは尾道に寄り道、いつものように「朱華園」に立ち寄ったのだが、お気に入りの「焼きそば」がもう売り切れだった。しかたなくいつもの「尾道ラーメンwith背脂」をいただき港町を後にして、一路2号線を西に走った。昔からだが三原を過ぎると道がよくなり高速と遜色なく快適に走れる(もちろん高速のような速度という意味ではない)。信号でとまるようなこともあまりなく、しばらくゆくと本日お目当ての西条付近に到着する。といっても、この辺りは西条バイパスといってさらによい道なので、今回どこで降りればよいかわからず、ずいぶん迷ってしまった。もし行かれるなら「三ツ城小学校」を目指すとよい、校門の真ん前が古墳公園である。

三ツ城古墳 円筒埴輪

全長約92m,前方部を北に向けた前方後円墳で、背後に径25mの円墳1基(第2号古墳)、第2号古墳の周構内に第3号古墳がある。
写真のとおり第1号古墳は葺石(ふきいし)で覆われ、円筒埴輪のレプリカを巡らし往古を再現している。後円部には槨(かく)を有する埋葬施設があり,鏡,鉄器(刀・剣・鏃(ぞく)など)銅釧(どうくしろ)櫛、玉類(勾玉・管玉・棗玉(なつめだま)など)が出土したという。埴輪には円筒のほか家形・短甲・鶏などがあり、造出しから土師器、須恵器類が出土した。古墳時代中期(5世紀)に築かれた古墳と考えられ、安芸国最大の規模であるとともに、岡山市の造山古墳と相似形ともいわれ、吉備と同系統の中国色の強い安芸国の首長のものと思われる。このように再現性を重視した古墳は専門家にはきっと異論もあるのだろうが、僕らシロオトには大変ありがたいもので、明石の五色塚や先日丹後の高速道路から見えた私市円山古墳なども再現型の文化財公園だが、その威容は感動的でもある。そして岡山でもできたらよいのにと強く思う。なぜなら、このように莫大な量の円筒埴輪が総て「吉備から始まった」という事実をほとんどの岡山市民は知らないにちがいないからだ。

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唐子鍵 遺跡を地元の人は?

大和 當麻寺 と 唐子鍵 遺跡を訪ねる 08 Nov.25

当麻寺奥の院

雨のなか奈良葛城の當麻寺を訪ねた。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっているが當麻寺の奥院(おくのいん)は京都知恩院(ちおんいん)の奥院として當麻寺の境内に建立された経緯から法然上人を祀っている。そして法然といえばその出身は吉備国(現在の美咲町誕生寺)である。以前の記事を読んでいただければご理解いただけると思うが吉備と大和の関係の謎に迫る現場にやっと来たーーという感じである。庭が大変きれいに整備され背景に二上山を借景とした、いかにも浄土をイメージさせる。倭文神社門前のお蕎麦屋で昼食をとった後、私が対であると考える葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)に向かった。(右写真)見てのとおり決して大きくないが二上山麓に鎮座する静かなたたずまいの神社だ。當麻寺に対するこの葛木倭文座天羽雷命神社の位置関係はほぼ北の約1.5kmにある。そして吉備二上山の両山寺の北約3kmに吉備(美作)の倭文神社がある。

さて、つづいて桜井方面へ向かうことにする目的地は唐子鍵遺跡だ。今日は休日のせいか道がすごく混んでいる、道をあちこち探すうちにやっと橿原付近に到着し道を尋ねる目的で給油所にはいった。「唐子鍵遺跡」をたずねると誰もわからないという。奈良県の人でも基本的に興味は薄いようだ。田原本町にあるということをたよりに向かうとその直前に「唐子鍵考古学ミュウジアム」というのを見つけたので、道を右にはいるとそこは「本日休館」であった、「えっ?休日なのに?」残念なことである。唐子鍵楼閣やっと遺跡に到着したが、そこは写真で有名な楼閣(復元)が唐子池の渕に立っているだけといっていいほどの閑散としたところだった。唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は標高約48メートル前後の沖積地、田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡である。遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

しかし不思議なことにこの巨大環濠集落は古墳時代に入ると消滅してしまう。そしてすれ違うようにすぐそばに巻向遺跡が突然出現するのだ。この謎が解ければ落ち着くよね?!

唐子池の楼閣

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吉備の中山 磐座をめざして歩く会?

吉備の中山 吉備津彦神社から元宮磐座へ 08 Oct.25

吉備の中山

岡山マスターズクラブの仲間とS氏を加えた5人で吉備津彦神社の元宮の磐座をたずねることになった。ことの始まりは、O氏が昔「吉備中山の山頂の磐座を訪れて超常体験をした」ということから話が盛り上がり、そこで土曜の朝に集合することになった。

吉備津彦神社を参拝した後、境内の左側に回り込むと登山口があり、そこから「奥宮磐座」を目指し登りはじめる。歩きやすい道が整備され、ちょっとした散策ロードである。竜王山への分岐を右にとり20分ほどで頂上に到着した。その広場は人の手によって草が払われているのだろう、緩やかな斜面にその巨大が磐座が注連縄に守られて悠然と鎮座していた。記念撮影などをすませた後、祝詞をあげみんなで磐座に触れてパワーを戴いた。

真金吹く吉備の中山といわれるように古代より吉備の中心地である。真金吹くとは製鉄が盛んなという意味だが、この中山にはたたら跡のような遺跡は見当たらない。もちろん真金吹くは吉備の枕詞なのだ。でもこの吉備の中山は謎だらけの山である。まずこの竜王山の南の頂には吉備津彦命の陵とされる御陵(中山茶臼山古墳)がある、これは陵墓として管理され墓域には立入禁止となっている。つまり宮内庁が認める天皇家の墓ということである。

吉備津彦神社元宮磐座

つぎに二つの一宮である。この中山には「吉備津神社」と「吉備津彦神社」の二つの一宮(備前、備中)が一つの山の麓に存在する。何故?という感じだ。同じような名前の神社がすぐそばにありそれが国境にあるのはいかにも不自然だと思う。

さらにこの中山の南麓には最古?の前方後円墳「矢藤治山古墳」があるのだ!墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡である。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。

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富士山 ついに初登頂

富士山 に再チャレンジ 08 Aug.17

富士山

一昨年、須走口からトライした富士登山は8合5勺で見事敗退したのだが、今年表玄関ともいわれる「富士宮口」から挑戦した。お盆期間は直接車では行けないので途中の富士スカイラインの水の塚公園でバスに乗り換えることとなる。三島を4時すぎに出発、無事6時のバスに乗れた、やはりカーナビの威力はすごい。40分ほどで富士宮口新五合目に到着して早速登りはじめたのだが、これがあとで後悔することとなった。左の写真は、ご覧のとおりまだ草が生えているのでわかるようにまだ登り始めではるかかなたに頂上がかすんでみえる。富士山のきついのはつねに頂上やら次の山小屋が見えているにもかかわらず、全然たどりつかないことだとおもう。

今年はほとんど山登りをしていないので二人とも足に自信がない。でも「一度はやっつけとかないとね!」ということで前をむいてというか上を向いてというか下をむいてのぼってゆく。大変な人数が同時に登っているので追い越し、追い越されが延々とつづく。よっぽど慣れている人以外はほとんど同じスピードである。ずいぶん元気よく登っていったなあと思ってもしばらくするとへばって休んでいるところに追いつくことになる。なにしろマイペースが肝心のようだ。

富士山 山荘

富士山の特徴の一つだとおもうが、登山客がじつに国際色ゆたかである。これは岡山の中国山地ではまず経験できないことで、なかでも中国語の比率が相当に高い。中国語圏のどこから来ているのかはよくわからないが、「ジャッキーチェン」でおなじみの香港映画で聞き慣れた広東語ではないようなので中国のメインランドからが多いのかもしれない。それにすごく服などが垢抜けてたりして中国の若者も変わってきているのだと実感する。(日本に仕事か学校できているのか?)途中、休憩しているところで出会った、肌の浅黒い青年に話を少しきくと、企業研修でインドネシアからということだった。

8合目をすぎるのにゆうに3時間をこえてしまった。足取りがじょじょに重く、加えて頭も重くなってくる。勾配もすこしきつくなり、つづら折れの距離も短くなるのだが、一服する間隔もおなじように短くなってゆく。足元の石もだんだんおおきくなっていくようで、うまく対応できず、ふらつくことが多く谷側をゆくのが危険になってきた。やっとの思いで9合目の万年雪山荘に到着、残り1合だが、頂上はすぐそこにみえている。

富士山 浅間神社

しかしここから、思わぬ展開になってきた、あと1時間から半とおもったのだが家内の足がぴたっととまった。私より体重の軽い彼女はつねにペースをリードしてきたのだが、どうしたのだろうか?9合目半の胸突山荘をすぎてペースはますますおそくなってきた、聞くと「頭が痛い!」という、つまり高山病だ。さあ、どうする、問題はこれが重症で即リタイアすべきなのか、あるいは軽症なのか?じつは自分も頭痛はないものの目線を上方(頂上など)に向けると眩暈がする。ふとまわりを見るとあることに気が付いた。かなりの人がうつむいたままじっと立ち止まっている、どうやらみな同じ状態のようだ。「よし、もうひとふんばりがんばろう!」

午後1時、ついに山頂に到着!出発から6時間が経過していた。通常5時間から5時間半ということなのでまずまず許容範囲かな?浅間神社で御朱印を頂戴し、火口を一望する岩の上でしばらく休憩して体調の回復を図ることとした。実際の3776mの最高点はあと20分ほどさきの測候所なのだが、それは断念することにした。

頂上浅間大社奥宮

午後2時に下山を開始した、ここから4時間半、筆舌に尽くしがたい苦痛を味わうことになるのだが文字どおり書くのはやめておく、現在その痕跡として私の両足の爪ははげている、痛ったあ?!

富士火口

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安倍晴明 吉備に現る

安倍晴明 天文台 08 July 8

いわずとしれた、平安時代最高の超能力者?である安倍晴明は陰陽師として天文を担当したが、この鴨方町に彼が天体観測のために使ったといわれる屋敷跡がある。これまで「安倍晴明ゆかりの地」という看板はたびたび見かけてきており、ついに本日たずねることとなった。安倍晴明 屋敷跡

矢掛町と鴨方の境にある竹林寺山の一角には国立天文台岡山天体物理観測所がある、かの有名な竹林寺天文台である、その西どなりの安部山の山中にこの平安の天体観測所跡があるというのはどういうことなのか?鴨方からも矢掛からも細い山道がありすぐそばまで登れる、道の脇に駐車してしばらく歩くとこの安倍晴明屋敷跡こと晴明神社はあった。しかし、関西出身の安倍晴明と吉備がどう関係するのかわからない、がっ 調べてみるとなかなか深い関係にあることがわかってきた。

安倍晴明の師匠 賀茂 保憲(かも の やすのり、917年 – 977年)は、陰陽頭。その父、賀茂忠行は陰陽道の宗家、それも吉備真備の血筋であるというのだ。つまり、この「鬼道」の宗家は吉備の加茂家ということである。まず、この地が「鴨方」であり、造山古墳の在る場所が「加茂」、吉備津神社の元社の可能性のある新庄の「御鴨神社」というぐあいに「吉備と加茂」の関係は深い。さてまた新たに迷路があらわれた感じである。

安倍晴明 天文台Map
https://www.google.co.jp/maps/@34.5853349,133.5830863,16z?hl=ja

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西谷墳墓 群 出雲遺跡群へ その二

西谷墳墓 群 08 May

西谷墳墓群

出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に発見され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1?4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四隅突出型墳丘墓

荒神谷遺跡から出雲市に向かって車をすすめると、なかなかわかり難いところにこの遺跡公園はある。出雲市駅の比較的近くなのだが、街中ではなく目印といえば出雲商業のグランドに隣接しているということだろうか。駐車場から公園内を周回する遊歩道が整備されており、さっそくその特徴である台形の墳墓が現れる。これがあの有名な四隅突出型墳丘墓だ。方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。

三号墓といわれるものから、各地との交流をしめす土器が出土しているが、それは北陸の土器と吉備の特殊器台である。時代も楯築と同時代と考えられるが、吉備、出雲、北陸が交流していたという表現にとどまらず、強い繋がりをもった関係になったと考えるがどうだろう。これがこの時代の社会変動の特徴をあらわすものだろうし、後年、箸墓においても同様のことがおきたのだろう。とくに「古事記に語られる出雲の国譲り」のエピソードが奈良大和と出雲の間におきた出来事と考えるとわからなくなるが、吉備倭(邪馬台国)と出雲の間の出来事と考えれば、ぴったり符合するのではないだろうか?

四隅突出部から墳頂に登る

西谷墳墓群(一の谷公園)Map

西谷墳墓群Map

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加茂岩倉 荒神谷 出雲遺跡群へ その一

加茂岩倉 遺跡& 荒神谷遺跡 08 May

ひさしぶりの休日、代表的な出雲遺跡群へでかけてみた。まずは島根県雲南市にある加茂岩倉遺跡、大量の銅鐸が道路工事の土中から発見された超有名なところだが、さすがにもう人が行列をつくることはない。この地名に注目すると、「加茂」の「岩倉」でとなりが「神原」で、どれをとっても意味深なものばかりだ。これだけでもここになにかありそうなものである。ここに山を横切って道を造ろうとして削っていたら偶然でてきたというのだから、もっとなにかうまっているにちがいない。

荒神谷遺跡
荒神谷博物館

このあとは、お決まりのコースであるが荒神谷遺跡にむかった。じつは直線距離ではすごく近い両遺跡であるが、車では10kmくらいかかる。以前きたとき工事中だった「荒神谷博物館」が完成していた、はいってみると、本来定休日であったにもかかわらず、消防訓練?で偶然観客役で入れてもらえた。ラッキー!写真は銅矛のレプリカ(もちろん)でその形と重さを体験できる、かなり重い。中の展示や解説が非常にわかり易くできていて、最近のこうゆう施設はすばらしい。

荒神谷遺跡は358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土したことで有名であるが、その数が圧倒的でほぼ一箇所の山あいの傾斜に埋もれていたわけだ。ここも農道の工事にさきがけた調査で偶然発見された土器片をきっかけに調査された結果だそうだ。

荒神谷遺跡&加茂岩倉遺跡Map

加茂岩倉 荒神谷遺跡

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