梅原猛 の足跡を追って出雲を行く その2

梅原猛 の足跡を追って

大神は私たちに試練を与えた? 2010年3月22日

出雲国造北島家実は約一月前の2月11日(建国の日)、降りしきる雨の中を私たちは出雲弥山の麓の道をこの社を求めて歩いていた。出雲井神社である。司馬遼太郎氏の「生きている出雲王朝」に紹介される古代出雲の語り部W氏が継承の儀式を行う舞台とされる神社だ。

吉田大洋氏の著書から引用すると「私は出雲市を訪れたとき、ひょんな体験をした。クナトノ大神を祀る出雲井神社(いづもいかみのやしろ)に寄ってみようと思い、出雲大社の社務所で道をたずねた。ところが、なかなか教えてくれないのである。うさん臭そうに、こちらの顔を眺めながら、「なぜ、そんなところへ行くんですか。小さな社がポツンと立っているだけで、なんにもありませんよ」と言う。道順を聞き出すのに、五、六分も押し問答をしなければならなかった。社家では出雲井神社と聞いただけで、神経をビリビリさせるのである。社家にとって、出雲井神社を訪れる者は、危険人物なのであろう。出雲井神社は、出雲大社の東、宇伽(うが)山のふもとの竹薮に、ひっそりと忘れられたように建っていた。」というくだりがある。

我々は出雲国造北島家(出雲教)の駐車場に車を停めてHPで仕込んだ「東へしばらく」という情報を頼りに歩いた。車がやっと一台通れる細い道だ、数百メートルのあいだに小さな社が幾つかある、どれもネットで紹介されていたものと風情がちがう、真名井と呼ばれる湧水泉をとおりすぎ、業をにやしてこの豪雨の中だれかに訊ねることにした。

梅原猛 出雲井神社

ちょっとした集会所のようなところにいた数人のおばさまたちに聞いてみた。「そんな神社はここらにはないなあ」「うん、ないない!」という返事であった。もう少し行くと弥山登山口がありそこで気持ちが折れた。「もうこの辺であきらめよう、寒いし、もう靴がぐちょぐちょ!」そして、先ほどの集会所にもどるともう誰もいなかった、我々はどうも歓迎されていないように感じる雨であった。

ひと月が過ぎ春となった、今日は天気もよい、12時に北島家に着き、車を右折させるとそのままその細い道を進んでいった。前回あきらめた地点から約200mでこの「出雲井神社」はひっそりと佇んでいた。ひと月半をかけての到着であった。

「クナトノ大神」は大国主よりも古い出雲族の祖神とされる神で、天孫族によってその正体を隠されたと考えられている。熊野大社の「亀太夫神事」の不思議さも、須佐之男の「八俣の大蛇」の謎もすべてこの「クナトノ大神」の存在で説明されるというのが前出の吉田大洋氏の著書「謎の出雲帝国」の中で語られている。これについての考察はまた改めてトライしてみたい。

今日の目的はこれでほぼ達成された感じである、いつものように大社西にある「荒木屋」にむかい昼食とした。

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梅原猛 の足跡を追って出雲を行く 熊野大社 など

梅原猛 の足跡を追って 熊野大社 など

蒜山を越えて伯耆そして出雲へ  2010年3月22日

梅原猛 芸術新潮先日の播磨訪問に続いて、本番ともいえる出雲訪問、最初は前回訪れた大国村倭の近くにある赤猪岩神社である。 大国主命を主神とし、その御親素戔嗚尊、さらに、稲田姫命を合祀する。古事記によれば、大穴牟遅神(大国主命)には、八十神といわれる多くの庶兄弟があり、かねてからその才能をねたまれていた。稲羽(いなば)の旅の途次(とじ)、気多(けた)の前(さき)(現在の白兎海岸か)で白兎を救い八上比売に求婚してこれを得たことなどから八十神たちの恨みを買った。

出雲への帰路「伯伎(ははき)の国の手間の山本」(現鳥取県西伯郡南部町)で八十神は、「赤き猪この山に在り、われ共に追い下しなば汝待ち取れ、若し待ち取らずば必ず汝を殺さむ」といい、猪に似た石を焼いて転し落し、大穴牟遅神はその石を抱いて落命した。赤猪岩神社その母刺国若比売(さしくにわかひめ)は泣き泣き天に上って神産巣日之命(かみむすびのみこと)に訴え、キサガイ比売(赤貝)とウムギ比売(蛤)を遣わされた。その貝殻を削った粉を清水で母乳のように練って塗ったところ蘇生して「麗しき壮夫(をとこ)になりて出で遊行きき。」とある。「伯伎国の手間の山本」を現在地(寺内字久清)として赤猪岩神社は祀られている。また日本洋画の巨人青木繁の「大穴牟知命」 (大国主命の受難の物語)という作品はこのエピソードをテーマとしている。

道路沿いに看板があり南折すると畑の間を細い道が山の懐へと入ってゆく、数百メートルで溜池のそばにその神社はあった。比較的こじんまりした社の裏には「宮崎駿の世界」にでてくるような苔むした巨石に大木の根がからまっていた。

熊野大社

つぎに紹介するのは、出雲の謎の大きな鍵を握る「熊野大社」である。熊野大社(くまのたいしゃ)は島根県松江市から十数キロ南の八雲町にある。火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮である。紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたと私は考える。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

この「熊野大社」で毎年、「亀太夫神事」という世にも不思議な儀式が行われる。亀太夫というのは、熊野大社の下級神官なのだが毎年10月15日に、新嘗祭に使用する臼と杵を、出雲大社の宮司が熊野大社に借りにくる。そのとき出雲大社の宮司は、新米で作った餅を数枚持参して熊野大社に渡そうとするのだが、亀太夫という下級神官がその餅に難癖をつける。「餅が小さい、形が悪いなど…」さんざん悪態をつき、挙げ句の果てに「出雲の人たちのおかげで生きていることを忘れるな」とまで言わるのだそうだ。出雲大社の宮司の出雲国造家(北島家、千家家)とは現代でも島根県知事と同格もしくはそれ以上の権威をもっているという。鑚火殿それが下級神官にボロクソに言われるのを、じっと我慢しなければならないのだ、この神事の不思議さにこそ出雲の謎を解く鍵が隠されている。

右の建物がこの鑚火祭、亀太夫神事で出雲国造(こくぞう)が借りにくる神器「燧臼・燧杵」を納めてある鑚火殿だ。実は私が数年前「これは不思議?」と思って古代史に吸い込まれていくきっかけになったのは「出雲風土記」にヤマタノオロチの伝説が載っていないという事実であった。でも、そんなことがあるのだろうか?それとも伝説自体「素戔嗚尊」の色彩が濃い吉備の出来事ではなかったのかとも思ったりした。これもこの亀太夫と関連していると今は思っている。此処の祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。しかし本当はクナトノ大神という出雲族の祖神で「クナト」が「くまの」に転訛したとされている。この謎の神を求めてこのあと出雲(杵築)大社へと向かった。

神器「燧臼・燧杵」を納める鑚火殿

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岡山県北のイタリアン La gita

勝間田の駅の敷地内? 県北のイタリアン La gita

La gita
La gita勝田郡勝央町勝間田というのは中々説明がむずかしいが、湯の郷の北西にある町で津山、奈義、湯の郷の真ん中といったところだろうか。勝間田駅の駐車場らしき広場の端っこにある。店内はとてもしゃれていて若い主人やスタッフが元気よく、とても活気を感じる若々しい店だ。料理も充分レベルを保っているし、石釜もありおいしいピッザもいただける。県北のドライブで寄るにとても良いお店を発見したという感じ!

LA GITA(ラジータ)のLunch

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B級グルメ 「蒜山やきそば」

「蒜山やきそば」新 B級グルメ の誕生?

B級グルメ「昭和30年代、蒜山高原では、各家庭で工夫して調合した、タレで焼そば、ジンギスカンなどを食べることがブームになっていました。
そんなおり、がんこで有名な「ますや食堂」のおばちゃんが、ニンニク・玉ネギ・リンゴ等の様々な材料や調味料を調合して作った味噌だれに、親鶏のかしわ肉とキャベツを入れて作ったこだわりの焼そばが評判となり、以来、ひるぜん焼そばとして地元の人々に愛され続けてきました。」(出典HP「ひるぜん焼きそば好いとん会」

今回は蒜山の入口というか湯原よりのところにある「やまな食堂」に入ってみた。みてのとおり量もたっぷりでなんとなく懐かしい味である。いまご当地グルメとして売り出し中ということでパンフレットなどに提供されているお店が載っているので好みのとこに行くといいかも。ちなみに「ますや食堂」はいまはなく「高原亭」のご主人がこのムーブのいいだしっぺだと、どこかのTVで紹介されていた、、、かな?

蒜山やきそば

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鳥取カレー あじろや

網代港のカレー あじろや

あじろや
イカスミカレー鳥取砂丘から東に10kmほどの網代漁港、「浦富海岸島めぐり遊覧船のりば内」にあるのが「あじろや」である。イカが豊富にとれる網代漁港ならではのイカ料理や、海産物を使った定食などがリーズナブルに味わえる。しかしここの刺身に眼もくれずこの「イカスミカレー」をいただく。鳥取B級グルメの代表格のカレーだが、この店だと海の幸もカレーも頂けるという便利さそして気軽さである。

そして、これがけっこうイケル!

イカスミカレー

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造山古墳 に周濠発見

造山古墳 岡大新納(にいろ)研究室説明会に行ってみた! 2010 20 March

造山古墳 後円部第二トレンチ

造山古墳 :周濠の存在確実に 堤跡の層発見--岡山大調査 /岡山(毎日JPより抜粋)

岡山大考古学研究室の新納(にいろ)泉教授(考古学)は17日、全国4位の規模の前方後円墳「造山古墳」(北区新庄下)の周辺発掘調査で、周濠(しゅうごう)(堀)の存在がほぼ確実になったと発表した。濠や外側の堤の跡などが確認された。畿内の大王に匹敵する権力者が埋葬されている可能性が考えられるという。

濠の幅は後円部で約20メートル、前方部では約26・5メートルとみられ、周堤跡は幅約8メートル、高さ約35センチだった。堤はさらに高かった可能性があるという。造山古墳の周濠の存在は50年以上議論されていたが、新納教授は「今回の発見で天皇陵と比べてそん色のない濠があることが分かった」としている。

上記のような報道が新聞各紙各メディアで大々的にされ、現地説明会がおこなわれるというので、本日さっそく行ってみた。右上の写真は古墳後円部の右45度のあたりを掘ったトレンチといわれる穴ぼこである。線がみえるのは違う土の層がわかりやすいように引いたもので、右から斜めに下っている線が堀の底で堤が盛り土で造られているのだそうだ。この盛り土の堤も削られている可能性もあるが、思ったより濠が浅いことがわかる。第三位の石津ヶ丘古墳(履中陵古墳,ミサンザイ古墳)(いしづがおかこふん:大阪府堺市石津ケ丘)と時代も作りもよく似ているが濠の深さだけが違うらしい。また、今回同じく調査された前方部の真下の位置の周濠跡と底の高さの差が3.7mあるので、濠は何分割かされていたようだ。

岡大新納教授

そこに、テレビでみた人が立っていた、新納教授だ。さっそく、お話をうかがった。「一位から三位までの古墳と似ているということは同族のものでは?」という質問に三位のミサンザイと築造時期がほとんど同時期ではないかとおもわれるので、別の集団のものと考えられる。ただどちらが早いかというと前方部がやや低い造山ではないかというご見解で、これからの調査で円筒埴輪の状態のよい資料を見つけて年代をつめてゆきたいということだそうだ。

「では、大阪の巨大古墳とそれ以前の奈良のものとの連続性は?」という質問に先生は「連続性は少なく別の勢力ではないか」という見解をしめされた。

大変貴重なお話であった、わたしはそれでも造山と大阪堺の巨大古墳は同じ勢力のものである可能性は十分にあると思う。この数世代前の崇神天皇の時期に倭が統一されたというのにこれみよがしに日本一でかい古墳を造る勢力が国内に並立していたという方が矛盾している。この中国色の強い勢力が九州から移動し吉備を経由して大阪平野に入り、王朝の交代がおこなわれたと考えるのだが、いかがだろうか。その意味では造山が風水観に従った王陵なので、第一位から三位までの巨大古墳の風水観との関連が実証されればより裏づけられると思う

ちなみに「アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、明治41年(1908 年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。
* 鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。
* 刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は南朝鮮の新羅や任那の古墳から出土している。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)

というわけで、青龍、白虎、玄武、朱雀が登場するのは極めて風水的だが、これだけで風水による造営と決め付けるには私の知識がたりない、これから勉強していこうと思う。

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梅原猛を追って 播磨三社 を行く

播磨三社 を行く 2009 10月

梅原猛先生とは日本の哲学者。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。京都市名誉市民。文化勲章受章者。梅原日本学と呼ばれる独自の世界を開拓し、またスーパー歌舞伎を創作するなど、幅広い活動を行っている。

播磨三社 射楯兵主神社

この梅原先生が「芸術新潮 09 Oct.」の誌上で自らの過去の「出雲神話作話説」を否定し出雲神話ゆかりの地を訪ね、新たな論考を加えるという企画が掲載された。自説を真っ向から否定するというのは、真実を求める学者であれば当然のことのようだが、これは大変難しいことであり、私はその柔軟性と自信に溢れた考察におおいに感心もし、尊敬の念を抱いた。そして、すぐさまその足跡を追ってまずは東に向かった。最初の目的地は姫路である。

出雲のエリアが播磨まであった残滓として一宮の伊和神社に伝わる一ツ山大祭と三ツ山大祭が播磨国総社「射楯兵主神社」に移って現代も奇祭として残っているそうだ。ここは播磨国の総社である。兵主神に射楯神を合祀し、また播磨国174座を一括して合祀している。兵主大神は大国主命,射楯大神は五十猛尊のことである。写真は姫路城そばにある神社の資料室にある小袖山の模型、山のてっぺんが依り代で実物は高さ18M、径10Mというからおそろしくでかい。本物みてみたい!

御方神社

つづいては、姫路を後にしてこのお祭りの元といわれる伊和神社に向かう。伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市にある神社、播磨国一宮で『播磨国風土記』で活躍が描かれている伊和大神(大己貴神)を祀る。三つ山祭は61年に一度、一つ山祭は21年に一度催行される。三つ山とは白倉山・高畑山・花咲山、一つ山とは宮山のことで、これら四つの山は伊和神社を囲む位置にある。それぞれに岩磐と祠があり、祭礼では祠を整備し、これらの山を遥拝する。山岳信仰、磐座信仰の名残と見られる。この神社は本殿が北を向いている、これは大変めずらしく此処と「吉備津神社」しか私は知らない。磐座信仰はもとよりだが、方位信仰、北辰信仰の名残りかもしれない。出雲の方向を向いているという意見もあるが、北に出雲はない。

祝日だけに多くの参拝者が訪れていた、ここは何度目かの訪問なので、二三枚写真を撮って次の目的地「御方神社」に出発する。だんだんと田舎らしくなってゆくがしっかりナビとにらめっこしながら無事到着した。

風土記にオオクニヌシのライバルとして登場するのがアメノヒボコ(天之日矛、天日槍)である。ヒボコは現在の兵庫県出石を拠点とし『古事記』、『日本書紀』垂仁天皇紀に新羅の王子として、『播磨国風土記』には神として著わされる。この両者が『播磨国風土記』のなかで壮絶な戦いを展開する。その内の「蔓なげ」のエピソードにゆかりの深いのがこの御方神社だ。

由緒によれば
 式内小社。『播磨風土記』には、「御方とよぶわけは、葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿[しにだけ]にお行きになり、 お互いにそれぞれ黒葛(蔓草)を三条足に着けて投げ合いなされた。その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多郡、一条は夜夫郡、もう一条はこの村[御方里]に落ちたので三条[みかた]と云う。 天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志[出石]の地を占めておいでになる。
 あるいはこうもいっている。大神が形見[形しろ]として御杖をこの村に立てられた。だから御形という。」と記している。鉄資源の簒奪合戦の最終局面と思われる。『日本の神々2』によると生野、神子畑、明延など現在の鉱業地に比較的近いとのこと、また黒地、金屋、釜河内、黒原と言う地名があるとのことである。 また、河川の合流するポイントであり、交通・産鉄の要所であったと思われる。
 祭神については、以前は左殿に月読神、中殿に高皇産靈神、右殿に素盞嗚神であったようで、主役と思われる葦原志許男神  と天日槍神が居ないのが興味深い。以前の祭神は三種の神器である勾玉、鏡、剣の象徴と思われ、記紀史観などに影響されたものだろうと思う。 本来の祭神は不明だが、一座とすれば葦原志許男神と同神と見られていた伊和大神であろう。HP「神奈備にようこそ」より引用

宮司さんがかたづけをしていた、訪問の理由を話すと、楽しそうに梅原先生のお話を聞かせてくださった。というわけで、このあとオオクニヌシとヒボコの関係に注目していこうと思います!!

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纏向 で発見された巨大建築跡についての考察2

纏向 遺跡 これって出雲神殿なのか?

さて、これまでは奈良盆地が邪馬台国ではないという理由を述べてきたが、これは畿内説が説くように「邪馬台国が奈良盆地に誕生して継続してそこにあった」ということではないという意味である。ではどうなのか?その謎を解く大きな発見が今回の大祭殿跡の建築様式に現れている。

纏向 神社

先日放送されたNHKの「クローズアップ現代」で白石太一郎さん(大阪府立近つ飛鳥博物館 館長)が説明していたが、この大型建築をはじめとした複数の建築跡が正確に東西に並んでいることから、太陽信仰の性格を持つ宗教施設であるということである。つまり現在の神社の造りとかわらないわけで、この最大の建築跡はその位置から本殿ということになる。そしてその最大の謎というのは正面から見て中心に柱があるということなのだ。左写真をみていただくとおわかりのように普通は正面の真ん中は通れるようにおおきく空いているのが常識である。では真ん中に柱のあるケースが他にあるか?というとあるのだ。そう、それは出雲大社の本殿である。

出雲神殿

先日、出雲大社が改築のため仮宮に遷られている間、本殿の特別拝観があったのでいってよ~~く見てきたが、まさしく正面中央に柱があり右奥の部屋にご神体が安置されているのだ。右写真は古代出雲神殿を再現したモデルだがこのようになっているのだ。つまり、纏向遺跡とは出雲の神つまり「大国主命」を祀る国邑の都というわけである。

さあこれをどう考えたらよいだろうか?

  • 記紀には天照大神が大国主を吸収合併したことになっているが天照はどこにいるのだろうか
  • しかも国譲りの時代はこの纏向の宮の何世紀か前のエピソードだが?
  • 奈良最古最大の神社大神神社の祭神は大物主(大国主)なのは当たり前!ということか
  • 天照大神はなぜ伊勢へ遷宮?しかもあちこちへ27度も!
  • なぜ飛鳥以降は南北の中国風になるのか?
  • 出雲にある西谷三号墳(四隅突出型墳丘墓)は方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。
    ここから、各地との交流をしめす土器が出土しているが、それは北陸の土器と吉備の特殊器台である。時代も楯築遺跡と同時代と考えられるが、吉備、出雲、北陸が交流していたという表現にとどまらず、強い繋がりをもった関係になったと考えるられる。これがこの時代の社会変動の特徴をあらわすものだろうし、後年、纏向箸墓においても同様のことがおきたのだ。とくに「古事記に語られる出雲の国譲り」のエピソードが奈良大和と出雲の間におきた出来事と考えるとわからなくなるが、吉備倭(邪馬台国)と出雲の間の出来事と考えれば、ぴったり符合するのではないだろうか?そして何らかのおおきな圧力に押されるかたちでこの奈良盆地に遷都してきたのだと考える。

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    纏向遺跡 で発見された巨大建築跡について

    纏向遺跡 巨大建築跡は卑弥呼の館か?!

    11月10日(09年)の各有力新聞テレビにおいて「邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。」と報じた。これで、邪馬台国畿内説で決まりという空気ですべてのメディア(全部チェックしてないけど)が伝えたということである。

    先日の「箸墓古墳の炭素14C年代測定による時代の深化」という歴博の発表の時と同様に九州説支持の人々はこのようにマスコミを利用して自説に誘導するやり方を強く非難するという構図だ。私もこの考えには一部賛同する、なぜならこのような巨大祭祀施設が纏向にあることは以前からいわれてわかっていたことであるのに、「ついに発見!」的な報道をするメディアの勉強不足とともに、そうなるようにもくろんで発表誘導しているように感じるからだ。そして私の意見を述べるなら、この畿内説と九州説のどちらも「邪馬台国の謎」と「日本誕生の歴史」を説明するには十分な説得力をもつとは到底思えないということだ。

    箸墓古墳


    第一の疑問点「古墳の元祖は中四国にある」

    この纏向遺跡の最大の中心的存在はもちろん箸墓古墳である。この古墳はすでに畿内論者が自ら唱えるように、「古墳時代」の幕を開けた巨大前方後円墳だが、もしこの桜井の地または奈良盆地のいずれかに邪馬台国があったとするならば、この前段の弥生の墳墓が存在してしかるべきだがそれが見当たらないのだ。

    高橋護先生の著書には「邪馬台国時代の墓制」というテーマで次のように語られている。近畿では古墳時代の直前まで「方形周溝墓」がほとんどでこれが弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がったが「古墳時代」に入り突然その姿を消してゆく、蛇足までにこの頃の北九州は甕棺である。

    そしてこの前方後円墳が出現するのだが、この古墳の構成要素である「葺石、貼石」「竪穴式石室」「前方部」「円筒埴輪」それぞれの起源が山陰、讃岐、そして吉備に由来するのである。特に、吉備特殊器台が箸墓の頂部から発見されたということが大問題だと思う。当時の宗教感は現代の我々の感覚をはるかに越えて重要かつ中心的なものであったにちがいない、でなければ卑弥呼が女王となって多くの国々を治められる訳がないではないか。それをよその国(吉備)の借り物で祭祀を行うことなど考えられようか。畿内説では「多くの国邑の緩やかな連合体だったので各地の習俗、祭祀の手法を取り入れた結果である」というが、では中心となった大和(邪馬台国)のそれはいったいどこにあるのか?遠慮したのか?またこの付近に弥生後期の古墳に移行する前段の有力な弥生墳丘墓などが見つからぬことから、纏向遺跡自体も突然この地に出現したという風に表現される、つまりはこの奈良盆地に古墳も宮殿も何処から急に現れたということである。

    第ニの疑問点「倭人伝の植生は奈良にはない」

    HP「魏志倭人伝なぞ解きの旅」にはこう記されている。(要旨)「魏志倭人伝の樹木名から、推測できる森や林は、暖温帯に分布する照葉樹林である。現在の西日本の代表的な、植生である。しかし現在より寒冷であつた、弥生後期の奈良盆地では見られない。だが大阪平野なら生育していた。」HP作者の「曲学の徒」桂川光氏は畿内説論者ではあるが奈良県立橿原考古学研究所『弥生の風景ー唐古・鍵遺跡の発掘調査60年』の花粉分析の報告を引き残念ながら奈良の植生ではないとしている。畿内説論者は「魏の使者は卑弥呼の居る都までは来ていない、伝聞だからまちがいもある」というだろうが、まあ無理があるのではないだろうか。

    第三の疑問点「女王国まで一万二千余里?」

     魏志倭人伝によると、邪馬台国への行程は帯方郡から始まる。帯方郡とは今のソウル付近で、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、南へあるいは東へと進み、倭の北岸にあたる「狗邪韓国」(釜山付近)に到着する。これまでが七千余里である、と書かれている。そして「女王国まで一万二千余里」となっているのだ。これを地図の上で大雑把に測ってみるとよい。結論は岡山か鹿児島となる。つまり一万二千余里では奈良は遠過ぎるのだ。まあ、機内論者であれば狗邪韓国からの距離だというにちがいないが。

    さて次に紹介するのは朝鮮の歴史書「三国史記」である。「三国史記」(新羅本紀)『57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」新羅第4代脱解王は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり』とある。つまり倭人(日本人)が海を渡って新羅の王となったという記述だ。丹後の宮津、籠(この)神社には「海をわたって新羅の王になったものあり」との伝説もあり、この多婆那国は「丹波国」で間違いない。すると、その南西千里とは現在の相生から備前のあたりがもっとも妥当であるし、魏志倭人伝の一万二千里の距離感とも一致する。いずれにしても丹波の南西方向に奈良はない。

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    田村誠一 氏 指摘の地名めぐりの旅

    田村誠一 氏 指摘の地名めぐりの旅

    田村誠一 ohkunimura_yamato大国村倭田村氏はその仕事の傍ら独自の斬新な古代史解釈に没頭し多くの著作を残した方である。「古事記は事実であった」という原点から、佐竹先生の「高天原蒜山高原説」を支持し、古事記に著された神話をこの蒜山(吉備ー美作)から伯耆、出雲にかけての歴史に基づいた伝承であるという説を唱えられている。特に地図を丹念に精査されることが大きな特徴で、今回その内の代表的な場所を実際に訪ねてみることにした。

    米子道溝口ICを出てナビをたよりに南部町をめざし最初の目的地「倭」に到着した。鳥取県西伯郡南部町倭はかつて大国村倭という地名でここに大国主と須世理毘売命(スセリ姫のみこと)が住まいを構えたと古事記にかかれているとされる場所である。ちょっと複雑だが田村誠一氏の本を研究再現しておられる大橋螢火氏のHPがありますのでこちら(大国村倭に関するページ)を参照頂きたい。

    「於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。」迦能山之山本は、迦能山の麓のことです。今は、ここに「山本」ではなく、「倭」という集落があります。字名は、「大国」です。ここに、底津石根。宮柱布刀斯理と書かれた宮殿を建てたことになります。

    この倭でさっそく神社を探すと小高い山の中腹に加茂神社が見つかる、この山が宇迦能山ということだ。またすぐ近くに天満(手間)という字があり、同じ古事記の大国主のエピソードに登場する「手間の赤猪の岩」に由来すると思われる赤猪岩神社が存在する。大国主のエピソードにあわせて地名や神社名を後世につけたと考えるのはいかにも素直でない、この土地の伝承を稗田阿礼が取材暗誦したのだ。

    田村誠一 日向浦

    さて、次に向かったのはゲゲゲの鬼太郎でおなじみの境港である。境港から境水道大橋をわたり美保が関町にはいったすぐの小さな港が「日向浦」ここは真南を向いているのでまさしく日向だ。この地を神武天皇(神倭伊波礼琵古命)が奈良大和に向かう出発の地「日向」であると田村氏は比定している。ひいじいさんの邇邇芸命(ににぎ)が葦原の中つ国に降臨し大山津見神の娘の木花之佐久夜毘売と夫婦となるが、大山津見神の本拠地は瀬戸内海の大三島であり櫛稲田姫(スサノオの奥さん)のおじいさんであることとも合わせると、中つ国が現在の中国地方の語源と考られる。

    そして、弥生時代からの古い歴史を今も色濃く残す隠岐の島と本州を結ぶのもこの境港であるが、奇しくも我々の目の前を大きな隠岐の島行きのフェリーが悠々と波を分けて進んでいった。

    takachiho

    さて、午後も深くなってきたので次に移動だ、せっかくなので「むきばんだ遺跡」を経由して東伯郡北栄町高千穂に向かった。(むきばんだについては別ログであらためて!)さて、この貴重な地名はすでに住所としては存在していないようでなかなかたどり着くのは難しいのだが、そのためではなく絶対に地名を安易に変えたりましてや無くしたりしてはいけないと思う。不思議なことというか有難いことにナビにこのちいさな部落の字名が載っていてなんとかたどり着いた。そこは、遠くに風力発電の風車が何機か見え、ひろびろとした畑が続く農村風景ですでにすこし薄暗く夕闇が迫っていた。

    ここが邇邇芸命が高天原より天孫降臨した高千穂である。この地に立つと不思議な感覚に陥る、それは「ここは蒜山高原?」という感じがするのだ。takachiho2なぜなら、そのゆったりとした起伏、その背景にそびえる山々、畑にそだつ作物や芝そしてすこしひんやりとした空気が蒜山そっくりなのだ。つまり高天原天孫族が蒜山から降りてこの地を選んだ様子がありありと思い浮かぶのである。左の写真はこの高千穂より西南を望む大山の姿だが、ご存知のとおり大山は富士山のような円錐形ではなく頂上はぎざぎざでいくつものピークがある。つまり、大山こそが高千穂なのだ。

    高千穂より大山を望む

    カテゴリー: 未分類 | 田村誠一 氏 指摘の地名めぐりの旅 はコメントを受け付けていません