纏向遺跡 で発見された巨大建築跡について

纏向遺跡 巨大建築跡は卑弥呼の館か?!

11月10日(09年)の各有力新聞テレビにおいて「邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。」と報じた。これで、邪馬台国畿内説で決まりという空気ですべてのメディア(全部チェックしてないけど)が伝えたということである。

先日の「箸墓古墳の炭素14C年代測定による時代の深化」という歴博の発表の時と同様に九州説支持の人々はこのようにマスコミを利用して自説に誘導するやり方を強く非難するという構図だ。私もこの考えには一部賛同する、なぜならこのような巨大祭祀施設が纏向にあることは以前からいわれてわかっていたことであるのに、「ついに発見!」的な報道をするメディアの勉強不足とともに、そうなるようにもくろんで発表誘導しているように感じるからだ。そして私の意見を述べるなら、この畿内説と九州説のどちらも「邪馬台国の謎」と「日本誕生の歴史」を説明するには十分な説得力をもつとは到底思えないということだ。

箸墓古墳


第一の疑問点「古墳の元祖は中四国にある」

この纏向遺跡の最大の中心的存在はもちろん箸墓古墳である。この古墳はすでに畿内論者が自ら唱えるように、「古墳時代」の幕を開けた巨大前方後円墳だが、もしこの桜井の地または奈良盆地のいずれかに邪馬台国があったとするならば、この前段の弥生の墳墓が存在してしかるべきだがそれが見当たらないのだ。

高橋護先生の著書には「邪馬台国時代の墓制」というテーマで次のように語られている。近畿では古墳時代の直前まで「方形周溝墓」がほとんどでこれが弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がったが「古墳時代」に入り突然その姿を消してゆく、蛇足までにこの頃の北九州は甕棺である。

そしてこの前方後円墳が出現するのだが、この古墳の構成要素である「葺石、貼石」「竪穴式石室」「前方部」「円筒埴輪」それぞれの起源が山陰、讃岐、そして吉備に由来するのである。特に、吉備特殊器台が箸墓の頂部から発見されたということが大問題だと思う。当時の宗教感は現代の我々の感覚をはるかに越えて重要かつ中心的なものであったにちがいない、でなければ卑弥呼が女王となって多くの国々を治められる訳がないではないか。それをよその国(吉備)の借り物で祭祀を行うことなど考えられようか。畿内説では「多くの国邑の緩やかな連合体だったので各地の習俗、祭祀の手法を取り入れた結果である」というが、では中心となった大和(邪馬台国)のそれはいったいどこにあるのか?遠慮したのか?またこの付近に弥生後期の古墳に移行する前段の有力な弥生墳丘墓などが見つからぬことから、纏向遺跡自体も突然この地に出現したという風に表現される、つまりはこの奈良盆地に古墳も宮殿も何処から急に現れたということである。

第ニの疑問点「倭人伝の植生は奈良にはない」

HP「魏志倭人伝なぞ解きの旅」にはこう記されている。(要旨)「魏志倭人伝の樹木名から、推測できる森や林は、暖温帯に分布する照葉樹林である。現在の西日本の代表的な、植生である。しかし現在より寒冷であつた、弥生後期の奈良盆地では見られない。だが大阪平野なら生育していた。」HP作者の「曲学の徒」桂川光氏は畿内説論者ではあるが奈良県立橿原考古学研究所『弥生の風景ー唐古・鍵遺跡の発掘調査60年』の花粉分析の報告を引き残念ながら奈良の植生ではないとしている。畿内説論者は「魏の使者は卑弥呼の居る都までは来ていない、伝聞だからまちがいもある」というだろうが、まあ無理があるのではないだろうか。

第三の疑問点「女王国まで一万二千余里?」

 魏志倭人伝によると、邪馬台国への行程は帯方郡から始まる。帯方郡とは今のソウル付近で、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、南へあるいは東へと進み、倭の北岸にあたる「狗邪韓国」(釜山付近)に到着する。これまでが七千余里である、と書かれている。そして「女王国まで一万二千余里」となっているのだ。これを地図の上で大雑把に測ってみるとよい。結論は岡山か鹿児島となる。つまり一万二千余里では奈良は遠過ぎるのだ。まあ、機内論者であれば狗邪韓国からの距離だというにちがいないが。

さて次に紹介するのは朝鮮の歴史書「三国史記」である。「三国史記」(新羅本紀)『57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」新羅第4代脱解王は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり』とある。つまり倭人(日本人)が海を渡って新羅の王となったという記述だ。丹後の宮津、籠(この)神社には「海をわたって新羅の王になったものあり」との伝説もあり、この多婆那国は「丹波国」で間違いない。すると、その南西千里とは現在の相生から備前のあたりがもっとも妥当であるし、魏志倭人伝の一万二千里の距離感とも一致する。いずれにしても丹波の南西方向に奈良はない。

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