纏向 で発見された巨大建築跡についての考察2

纏向 遺跡 これって出雲神殿なのか?

さて、これまでは奈良盆地が邪馬台国ではないという理由を述べてきたが、これは畿内説が説くように「邪馬台国が奈良盆地に誕生して継続してそこにあった」ということではないという意味である。ではどうなのか?その謎を解く大きな発見が今回の大祭殿跡の建築様式に現れている。

纏向 神社

先日放送されたNHKの「クローズアップ現代」で白石太一郎さん(大阪府立近つ飛鳥博物館 館長)が説明していたが、この大型建築をはじめとした複数の建築跡が正確に東西に並んでいることから、太陽信仰の性格を持つ宗教施設であるということである。つまり現在の神社の造りとかわらないわけで、この最大の建築跡はその位置から本殿ということになる。そしてその最大の謎というのは正面から見て中心に柱があるということなのだ。左写真をみていただくとおわかりのように普通は正面の真ん中は通れるようにおおきく空いているのが常識である。では真ん中に柱のあるケースが他にあるか?というとあるのだ。そう、それは出雲大社の本殿である。

出雲神殿

先日、出雲大社が改築のため仮宮に遷られている間、本殿の特別拝観があったのでいってよ~~く見てきたが、まさしく正面中央に柱があり右奥の部屋にご神体が安置されているのだ。右写真は古代出雲神殿を再現したモデルだがこのようになっているのだ。つまり、纏向遺跡とは出雲の神つまり「大国主命」を祀る国邑の都というわけである。

さあこれをどう考えたらよいだろうか?

  • 記紀には天照大神が大国主を吸収合併したことになっているが天照はどこにいるのだろうか
  • しかも国譲りの時代はこの纏向の宮の何世紀か前のエピソードだが?
  • 奈良最古最大の神社大神神社の祭神は大物主(大国主)なのは当たり前!ということか
  • 天照大神はなぜ伊勢へ遷宮?しかもあちこちへ27度も!
  • なぜ飛鳥以降は南北の中国風になるのか?
  • 出雲にある西谷三号墳(四隅突出型墳丘墓)は方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。
    ここから、各地との交流をしめす土器が出土しているが、それは北陸の土器と吉備の特殊器台である。時代も楯築遺跡と同時代と考えられるが、吉備、出雲、北陸が交流していたという表現にとどまらず、強い繋がりをもった関係になったと考えるられる。これがこの時代の社会変動の特徴をあらわすものだろうし、後年、纏向箸墓においても同様のことがおきたのだ。とくに「古事記に語られる出雲の国譲り」のエピソードが奈良大和と出雲の間におきた出来事と考えるとわからなくなるが、吉備倭(邪馬台国)と出雲の間の出来事と考えれば、ぴったり符合するのではないだろうか?そして何らかのおおきな圧力に押されるかたちでこの奈良盆地に遷都してきたのだと考える。

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