三徳山投入堂

三徳山投入堂 08-May

鳥取県三朝町の 三徳山投入堂 は一度はいってみなければと思っていた、奇観である。寺伝によれば、慶雲3年(706年)に役行者(えんのぎょうじゃ)が三枚のハスの花びらを散らし、「仏教に縁のある所に落ちるように」と祈ったところ、その一枚が三徳山(みとくさん)に落ち開山したと伝えられる修験道場ということだ。三朝町から奥に5kmほど車で登ってゆくと、すでに多くの観光客が行きかって賑わっている。一番奥の駐車場に止めて、さっそく食堂に入りそばで腹ごしらえをして寺に入山した。階段をしばらく登ると本堂に到着、さらに「投入堂」への登山のための入り口がある。靴のチェックと名前を記入していよいよ登山開始だ。

さすがに、今日は祝日のせいか大勢のひとが列をつくっている。われわれのように登山モードの人は少なく、普段着の人がほとんどである。なかには多分、ハイヒールできたに違いない若い女性もいる。じつは入り口で靴が不適切とされると、有料で「わらじ」を履かなければならないのだ。この「わらじ」がどうやらすべりにくいらしい。中途半端な運動靴ではよくすべるようで、慎重さにかける若い人がよく転倒していた。

三徳山投入堂

さすがに修験道場らしくきびしい登りがつづく、手を掛けて登る場所が多いのでお年寄りなどで、あきらめて帰る人もいる。情報として記しておくが、後半の鎖場以外では最初のあたりが一番きびしいので、ここだけのりきれば、あとはいけると思う。が、自信のない人はあきらめなさいという配慮なのかもしれない。

約40分で目的の「投入堂」に到着する。こんな絶壁にこんなものがというだけで「びっくり」であるが、実は以前、中国へ旅行した際「大同」でほとんど同様の懸空寺という寺が観光地としてあり、そのときはそのお堂の中に入れた経験があった。お参りをすませると下山であるが、もちろん下りの方が危険なのでゆっくりとおりる、登りとほぼ同じ時間で登山口に到着し無事「三徳山」登山は終了した。

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大山を望む 毛無山

毛無山 08-Apr.29

かたくりの花

連休初日、鳥取との県境の毛無山に向かった。もしかすると岡山でもっとも人気のある山かもしれない、登山口が整備されているし、山道もよし景色よし、森もよしということだろう、大勢の登山客と出会う。数にして200人位で多くのカメラおじさんが含まれており片手にカメラを掲げて上り下りしていた。さらに元気なのは奥様軍団で「三平山から縦走してきた」と意気軒昂で、すでに6?7時間歩いているというから脱帽である。

今日は白馬山から毛無に廻るコースをとった、すると1時間ほどで白馬山頂の広場に到着したが、このあたりに片栗の花が群生していた。保護されているため踏んづけると怒られるので慎重に下を観て歩く。縦走路からみる右手が大山、左手に田浪の集落を見下ろして景色が広がる。40分ほどで毛無山頂に到着する。

毛無山は役の小角の開闢による修験道の山とされ、戦前まで女人禁制であったとのこと、「けなしがせん」と読む。「山」を「せん」と読むのは中国地方の特徴であるが、「せん」は呉音であり、長江流域の言葉と考えられる。さらに修験道の祖「役の小角」は実は神官の子なのである、神道と仏教を融合させた形が修験道であるが、それは神の邦である吉備で醸成され熊野に移行していったのではと想像する。つまり「せん」と読むこの地域で修験道もしくはその原点が生まれたのではというのが私の説だ。

毛無山から南を望む

山頂からはすこし霞んではいるが大山の全容が見える、そしてまだ雪をかぶっている。下山は1時間5分、この時間に登る人もおらず誰ともすれ違わなかった。駐車場には我々の車だけであった。

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仏ヶ山に再挑戦 蒜山 は古代湖だった

仏ヶ山に再挑戦、蒜山 は古代湖だった 08-Apr.15

仏ヶ山から鳥取を望む

仏ヶ山は 蒜山 高原の中和村と八束村の境にあって、丁度下蒜33山の東隣りの山である。先々週の火曜午後にトライしたのだが、そのときは雪が林道に所々に残っており1km手前から徒歩で登山口に向かっていると、山菜とりのご老人が雪の中で車を脱輪さ せて立ち往生している現場(峠)に出くわした。結局、この救助作業でこの日は終了して、いつもの「豆腐」を買って帰るという一日だった。

さて本日だが、23度を越える快晴で雪もすっかり消えていた。峠に車を止めてさっそく登山開始、登りはいささか急でしばしば足がとまった(運動不足?)が、距離は短く約25分程度で少々のやぶこぎの末、三角点に到着した。

この写真は北に開けた倉吉方面(日本海)を望む景色である。田村氏の説によればこの方角に天孫降臨の高千穂(鳥取県東伯郡北栄町岩坪付近)がある、地図でみると字名としてはのこっているが住所としてはない様子だ。現在の北栄町は旧北条町と旧大栄町の合併によるもので、どんどん地名が減っていくのがなんとも悲しい。10分ほど頂上で過ごし、慎重に下山した、30分で登山口に到着した。

時刻はもう5時になっていた、東集落から蒜山三座山麓のドライブウェイに入り心地よい風を楽しみながら走ってゆく。すると、いつもは何気なく通り過ぎていた石切場のような大きな穴が気になり入ってみた。これが蒜山の珪藻土の採掘場であった。

約100万年前頃、火山の活動により蒜山三座が誕生した。それまでの川の流れは西に方向を変え、上蒜山の西側より日本海側へ流れ込むようになった。更に約35万年前、大山の噴火によって西側がせき止められ、「蒜山原湖」が誕生したのだそうだ。昭和科学工業採掘場
南を中国山地、北を蒜山三座に囲まれた 蒜山 原湖には珪藻(けいそう)が繁茂した。珪藻は珪酸質の殻を持つため、湖底に堆積していく。珪藻が生息していたのは5万年間と推定され、珪藻土の最も厚いところは約100mに達すると言われている。
その後も大山の噴火活動は続き、現在の真庭市蒜山地区西部あたりは噴出物で埋まっていき逆に湖の東部は旭川水系の浸食を受け、湖水は南へと流出し始めた。やがて湖は干上がって消滅したが、珪藻は化石となって残った。蒜山高原の誕生の歴史である。

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桃 と桜

桃と桜 2008-Apr.8

桃源郷

後楽園土手の桜も満開を過ぎ、岡山でつぎといえば桃か北の桜ということになる。今日は天気もよさそうなので桃見と桜見のダブルヘッダーを試みた。

岡山市下芳賀から新岡山CCに登る道沿いにこの桃源郷といってもよい桃畑の山がある。数年前「タイムボカンの悪役三人組」の本物?が岡山を訪れられたのが丁度この時期でご案内すると至極感激されたことを思いだす。

桃 の濃い色の花はそめいよしのの淡い(白い?)ピンクに比べて圧倒的な存在感である。今日も桃畑の農道を何台かの花見見物の人とすれ違ったあと、絶好のポイントに駐車して準備しておいたお弁当をぱくつく、年に一度の楽しみだ。

醍醐 桜

さてつづいてはここから約1時間ちょっと、落合は別所の醍醐桜である。のどかな山里の原風景の中にあって、ただ1本だけ空に向かってそびえ立つ、県下一の巨木といわれ、日本名木百選にも選ばれた見事な桜だ。目通り7.1m、根本周囲9.2m、枝張り東西南北20m、樹高18m、種類はアズマヒガン(ヒガンザクラの一種)で、昭和47年12月岡山県の天然記念物に指定され、伝説によれば、元弘2年(1,332年)後醍醐天皇が隠岐配流の際、この桜を見て賞賛したといわれる。

毎年恒例の訪問だが今年は直前の開花情報をチェックせずにきたせいでまだ「咲き始め」である。地元のひとたちが用意してくれた産物をいくつか購入(だいたいが酒肴)し、うどんを一杯いただいて今年の見物は終了した。

醍醐桜はアズマヒガン

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吉備の中山 を歩く

吉備の中山 を歩く 08 Mar.25

hosotanigawa

古今和歌集に「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川のおとのさやけさ」と歌われる岡山市吉備津の中山を訪れた。現在、吉備津神社は本殿を改装中で少しうす暗いなか参拝を済ませると回廊を南に廻り遊歩道の入り口にたった。ここ吉備津神社ではどうも東西南北の感覚がおかしくなってしまう。実際には本殿がほぼ北を向いているが、まずはこのことが大変めずらしい。ほかに北を向いている神社があったら是非紹介してもらいたいと思うくらいだ。ここから足守川をはさんだ西2kmにあの楯築弥生墳丘墓があり方位信仰の跡が残る遺跡であることを考えると、この吉備津神社の出自に特異な歴史があるのだと思う。

chausuyama

この山の最高峰は竜王山(ここも中国系?)で175mという低山であるがそれでも細谷川となずけられた小川がチョロチョロとながれている。遊歩道として整備された道をしばらくいくと残念ながらアスファルトの車道にでる、よい天気のせいかたくさんのウォーキングの人々と出会った。さて左側に中山茶臼山古墳への登り階段があらわれるのでさっそくゆくとよく整備されたその広場に到着する。ここは陵墓参考地に指定されており古墳内への立ち入りが禁止されているがその主は「吉備津彦命」とされている。

つぎは、ここからすぐの場所にある古代吉備文化財センターにたちより、本日の目的地でもある矢藤冶山古墳への道を訊ねることにした。yatojiyamaここには「上東遺跡の護岸跡」「吉備の陶棺」「吉備特殊器台」などの大物を見ることができる。さて教えてもらった道をゆき約20分ほどで矢藤冶山古墳の頂上に到着した。実際にはセンターの事務の女性はこの古墳のことを知らなかったし、リンクページをさがしたがWEB上にこの古墳を説明するページはヒットしない、つまり思いのほか扱いがちいさいのだ。しかし墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡であるに違いないのだ。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。

矢藤冶山古墳と説明板

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備前車塚 古墳は竜の口の山の上

備前車塚 古墳は竜の口の山の上 08-Mar.11

備前車塚古墳

備前車塚古墳は墳長48.3m、後方部長23mの前方後方墳で三角縁神獣鏡が11面出土している重要な古墳である。岡山市内の高島や備前国府の跡(古代での存在は不明)の近くの四御神にある団地の奥にその登山口はある。この山は竜の口山と呼ばれる257Mの山でその中段100M位のところで南面の景色のよかったであろう(いまは木がじゃま)場所に造られている。

竜の口山は「竜の口グリーンシャワー公園」として整備されていて快適な山歩きコースになっており、今日は車塚を経由して山頂を目指すことにした。30?40分で山頂展望台に到着、ここからの景色がよくてすぐ南に操山さらにその向こうの貝殻山がはっきりとみえる。

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下りは四御神コースをおりたが、このコースは一瞬県北の深い山を歩いていると錯覚するような景色がつづく。途中、古墳群もあり寄り道しながらゆっくりと歩くと出発地の車塚公園に1時間で帰着した。

備前車塚古墳の神獣鏡の出土、特殊器台埴輪がなくその山の名が「竜の口」という点から極めて中国色の強い性格のものだなという感想である。

竜の口山四御神コース

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考古学研究会 岡山3月例会に潜入!?

考古学研究会 岡山3月例会 08-Mar.8

reikai

開催日:2008年3月8日(土) 14:00?16:00
会場:岡山大学大学院自然科学研究科棟2階大会議室
[発表者・内容]
野島 永(広島大学大学院文学研究化) 「弥生時代初期鉄器の実像をめぐって」
 弥生時代前期から中期に属する初期鉄器資料の再検討を行い、鉄器出現時期とその流通について考察する。

富岡直人・畑山智史(岡山理科大学)
「貝殻成長線分析からみた日本各地の貝塚の特徴」
貝塚出土貝類を顕微鏡観察すると、成長速度や死亡季節が推定される。これにより貝塚の機能や貝採集の実態、環境の変化を追求することが可能となる。この研究の到達点と展望を報告。

というような会が開催されるということで、初めて参加してみた。この会は毎月?開催されているらしい、参加者は発表者の先生と同業の研究者らしい人たちが県外からも、(質問されるとき所属と名前をいわれるのでわかる)あと学生やら岡大研究室の関係者の方々(かな?)、あとなんといっても勉強家のご年配の諸先輩がた総勢で60人ほどが会場を埋めていた。(写真は前の方しか写ってないので少なくみえる!)

「考古学研究会岡山」とは不思議な名前だと思っていたが、それがすごいことがわかった!(一般に固有名詞の「考古学研究会(こうこがくけんきゅうかい)」は、1953年に岡山県飯岡村(現・美咲町)で行われた月の輪古墳発掘運動を原点として、1954年、岡山大学考古学研究室に設立された「考古学研究会」を指す。)のだそうだ。つまり私と同じ年齢を経た日本最大の研究会で一般に公開されているのが特長の権威と歴史を誇る会が岡山にあるということだ。

さて、発表のほうだが野島先生のお話は「鉄器出現時期とその流通」ということで興味深くうかがったが、私の勉強不足と注意不足であろうか「鋳造か鍛造か?」ばかりで流通についてはよくわからなかった。もらった資料を見直すとつまり弥生前期末葉?中期中葉で北九州内陸部に集中しておりその他山口や畿内でも多く発見されるが、岡山にはほとんどないということがわかる。この時期は吉備に水田は発達していたと思うが鉄農機具がないというのは何を意味するのか?そこの仮説を聞きたかったところだが、考古学ではそこまで踏み込まないのだろうか?そこが不思議!

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稚媛 (わかひめ)と吉備上道臣田狭の悲劇!

稚媛 と吉備上道臣田狭 両宮山古墳に眠る!? 08-Feb.26

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両宮山古墳は、岡山市内から山陽町に入ったすぐの左側にある、五世紀後半の築造とされる前方後円墳で雄略天皇の期に符合する。備前最大の全長百九十四メートルあり、県内では岡山市・造山古墳(五世紀前半、三百六十メートル)、総社市・作山古墳(五世紀中ごろ、二百八十六メートル)に次ぐ大きさで、水をたたえた幅約二十八メートルの周濠がすぐ横を巡っており、さらに二重目の周濠が後円部側の五か所で確認された。そして、吉備上道臣田狭と弟君の両宮が祀られるとされてその名を冠している。

田狭の妻、稚媛の物語はミュージカル「ワカヒメ」( 作・台本・総監督・演出:なかにし礼 作曲・音楽監督:三木稔)で岡山シンフォニーホールのこけらおとし公演として上演された、まさしく劇的な人物である。それにしても、「黒媛(くろひめ)」「兄媛(えひめ)」「お福」&「稚媛」と岡山には伝説的美女の多いことは、ついつい自慢したくなる。ストーリーをミュージカル「ワカヒメ」のパンフレットより紹介しよう。

「吉備の国、上道国造の田狭は、自分の妻である稚媛の自慢をした。田狭の言葉を聞いた雄略天皇は、稚媛の舞を見て、一目ぼれしてしまう。なんとしても稚媛を手に入れたい天皇は、 田狭を任那国司として派遣し、その留守に「従わねば一族皆殺しにする」と稚媛を脅し、稚媛を宮中に召し出し、妃としてしまった。 稚媛には夫、田狭との間に、兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)という二人の息子がおり、天皇との間に星川皇子も生まれた。しかし、夫田狭を慕い、いつまでも天皇に心を許さぬ稚媛に業を煮やし、天皇は任那にいる田狭にあろうことか、実の息子の弟君を討伐軍としてさしむける。」という具合。

そして稚媛のもうひとつのエピソード「星川皇子の乱」とさらに、あわせて「下道臣前津屋謀殺」の話は「雄略天皇と吉備」との特殊な?関係を感じないではいられない。ここで金谷氏(HP古代吉備王国の栄光と衰亡)の興味深い見解を紹介したい。「上道臣田狭事件の真相は」
「下道臣前津屋謀殺」

両宮山古墳には埴輪は発見されておらず、内部は未調査ということで情報が少ないが「二重周濠を持つ」ことから極めて重要な古墳であるにちがいない。日本書記の雄略天皇の項(第14巻)を中国人が担当していることや、田狭が新羅と組んで雄略と対峙することから、親中派と親倭吉備派との対決構図で、稚媛は自らの身を投じて、倭の主導権を奪い返そうとしたのだと思う。

ちなみにオリンピック陸上女子において日本人第1号のメダリストは「人見絹江」、第2号は「有森裕子」で二人とも岡山人なのである。つまり結論としていえるのは、稚媛の昔から「岡山の女性はすごい!」ということにつきる。

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貝殻山遺跡( 高地性集落 )再び

貝殻山遺跡 高地性集落 っていったい何だろう 08-Feb.18

貝殻山頂上

高地性集落とは弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設だ。貝殻山は岡山市内から南に位置する児島半島にあり手頃な山歩きコースなので時々訪れる。登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区に整備されている、車を止めて金上池コース(東周り)を登り約50分で頂上の公園に着いた。今日はひさしぶりの暖かい一日で頂上芝生広場でのんびりと寝転んですごした。

「ぼくのなまえはヤン坊♪♪」

貝殻山遺跡は弥生時代中期に出現し6棟の竪穴式住居あとと貝塚、分銅形土製品などが発見されている。鴫沢遊児さんのHPの高地性集落を参考にしてもらうとわかるように弥生時代3期4期5期ではそれができる場所が変化している。よく考えてみると見張り施設であれば対立したどの部族でも必要不可欠なものだろうから、どんどん変化することに不思議はない。特に高地性集落には環濠のあるものとないものがあり、これを時代による防御機能の進化とみることもできるし、対立する陣営の特徴をあらわすものかもしれない。

分銅形土製品というのはこの時代に吉備を中心に発見されるおまじない道具のようなものでそれこそ分銅の形をしている。さらに前ログにも書いたとおり、この地点は楯築遺跡からみて冬至の日の出の昇る方角であり、しかも見通せる。であるとするならば(by石破しげる)この施設はもともとこの吉備地域に勢力をもつ陣営のものつまり倭国(邪馬台国)の施設に違いない。瀬戸内海は180度開け南には四国が見える、北は我が家のほん近所の操山(古墳だらけ)にある見張り施設?の旗振台などすぐそこにみえ、手旗での通信も可能かとおもえるほど近い。実際に江戸時代末から明治時代にかけて、大阪・堂島の米市場での相場が、毎日旗を振って暗号でリレー形式に伝えられたのだそうだ。しらべてみないとわからないがそのずっと昔から通信設備として利用されていたのだと思う。

貝殻山から岡山市内を望む

さて、そろそろ下山である、今日は宮浦にくだる五石コースをとった。上の写真は、五石のひとつの「隠れ石」からみる岡山市全景で、真ん中に見える小さな島がかの高島である。

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日本書紀 は中国製!?

日本書記 は中国製?で三角縁神獣鏡は日本製? 08-Feb.18

おもしろい邪馬台国サイトを見つけた。ひとつは安本美典氏を主宰とする「邪馬台国の会」のHPでとてもしっかりとした内容と体裁を持つページであり、「九州説」を唱えている。いまひとつは「歴史言語学と日本語の起源」でどちらも京都産業大学の森博達教授(日中語文交渉史の研究)の説を紹介したもので、語学からのアプローチだ。

まずは三角縁神獣鏡(景初三年鏡)の銘文についての考察だが、このページを読むとわかるが、卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、詩文隆盛の時代でこの韻律のでたらめさは中国のオリジナルとは考えられないということだ。 ではどう考えたらよいのか、出土したのがたとえば倭国(邪馬台国)系の古墳とすればこんな「なんちゃって銅鏡」のようなものにどんな意味があるというのだろうか。それでは中国系古墳とすればこれもすっきりしない。なんだか悩みが増えた感じである。

つぎの 日本書記 の中国人 執筆説もすごく説得力のあるはなしで書記十四巻以降(くわしくは参照ページをみてね)は文法ミスがない、ゆえに中国人であるというところがおおいに惹かれる。日本書記それはその十四巻が雄略天皇の項だからだ。それゆえ雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。そもそも日本の歴史を記すのになぜ中国人なのか、なぜ前半と後半で執筆者がちがうのか?謎は広大な迷路のようにまた深くなっていた。

「九州説」も「畿内説」も互いを攻撃するときの理由にうなずけるものが多くどちらでもないというのが正直な印象だ。まず畿内には弥生後期の遺跡が乏しいといわれるし、魏志倭人伝にある植生が当時の奈良盆地では無理があるという。ひるがえって「九州説」では邪馬台国は「一大率」という役所を伊都国に設置して諸国を監視したとあるが、もし邪馬台国が北部九州にあるならば、こんな近くの他国に出先機関を置くことなどせずに、自ら監視するはずだ。それに魏志倭人伝の里程で九州内に収まるにはいかにも無理がある。どちらにしても九州or畿内以外にまったく頭がいかないということ自体が柔軟性を欠いているように思う。

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