稚媛 (わかひめ)と吉備上道臣田狭の悲劇!

稚媛 と吉備上道臣田狭 両宮山古墳に眠る!? 08-Feb.26

ryouguzan_kofun

両宮山古墳は、岡山市内から山陽町に入ったすぐの左側にある、五世紀後半の築造とされる前方後円墳で雄略天皇の期に符合する。備前最大の全長百九十四メートルあり、県内では岡山市・造山古墳(五世紀前半、三百六十メートル)、総社市・作山古墳(五世紀中ごろ、二百八十六メートル)に次ぐ大きさで、水をたたえた幅約二十八メートルの周濠がすぐ横を巡っており、さらに二重目の周濠が後円部側の五か所で確認された。そして、吉備上道臣田狭と弟君の両宮が祀られるとされてその名を冠している。

田狭の妻、稚媛の物語はミュージカル「ワカヒメ」( 作・台本・総監督・演出:なかにし礼 作曲・音楽監督:三木稔)で岡山シンフォニーホールのこけらおとし公演として上演された、まさしく劇的な人物である。それにしても、「黒媛(くろひめ)」「兄媛(えひめ)」「お福」&「稚媛」と岡山には伝説的美女の多いことは、ついつい自慢したくなる。ストーリーをミュージカル「ワカヒメ」のパンフレットより紹介しよう。

「吉備の国、上道国造の田狭は、自分の妻である稚媛の自慢をした。田狭の言葉を聞いた雄略天皇は、稚媛の舞を見て、一目ぼれしてしまう。なんとしても稚媛を手に入れたい天皇は、 田狭を任那国司として派遣し、その留守に「従わねば一族皆殺しにする」と稚媛を脅し、稚媛を宮中に召し出し、妃としてしまった。 稚媛には夫、田狭との間に、兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)という二人の息子がおり、天皇との間に星川皇子も生まれた。しかし、夫田狭を慕い、いつまでも天皇に心を許さぬ稚媛に業を煮やし、天皇は任那にいる田狭にあろうことか、実の息子の弟君を討伐軍としてさしむける。」という具合。

そして稚媛のもうひとつのエピソード「星川皇子の乱」とさらに、あわせて「下道臣前津屋謀殺」の話は「雄略天皇と吉備」との特殊な?関係を感じないではいられない。ここで金谷氏(HP古代吉備王国の栄光と衰亡)の興味深い見解を紹介したい。「上道臣田狭事件の真相は」
「下道臣前津屋謀殺」

両宮山古墳には埴輪は発見されておらず、内部は未調査ということで情報が少ないが「二重周濠を持つ」ことから極めて重要な古墳であるにちがいない。日本書記の雄略天皇の項(第14巻)を中国人が担当していることや、田狭が新羅と組んで雄略と対峙することから、親中派と親倭吉備派との対決構図で、稚媛は自らの身を投じて、倭の主導権を奪い返そうとしたのだと思う。

ちなみにオリンピック陸上女子において日本人第1号のメダリストは「人見絹江」、第2号は「有森裕子」で二人とも岡山人なのである。つまり結論としていえるのは、稚媛の昔から「岡山の女性はすごい!」ということにつきる。

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