梅原猛 の足跡を追って出雲を行く その3

梅原猛 の足跡を追って大社から海岸線を行く 2010年3月22日

稲佐の浜稲佐の浜は出雲大社のすぐ西にあり日本海が広がっている、そして言うまでもなくその先は朝鮮半島だ。大社の本殿の右奥に鎮座している大国主命はこの稲佐の浜の方(左)に向いている。そして記紀に伝わる「国譲り」の伝説の舞台になるのが此処だ。

タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。

なんだか訳のわからない話ではあるが、天孫族が出雲族を武力によって従わせたということで、これに承服しかねた事代主は「承知した」といいながら自決したという話だ。現在でも事代主を祀る美保神社でこのエピソードを忘れぬよう祭りにした青柴垣神事が行われている。

日御碕神社この「無血開城」のように語られる「国譲り」のエピソードに本当はどのような史実が隠されているのかが最も重要なところだと思う。

出雲の国でもっとも北にあるのは島根半島、この半島は東西に長く西の端に日御碕がある。稲佐の浜からは海岸沿いの道を20分走ると看板があり港へと下りて行く、そしてそこに日御碕神社がまるで竜宮城のように現れる。日御崎神社の下の宮はアマテラスを祀り一名日沈宮(ひしずみのみや)とも呼ばれて古来夕陽をはなむけするところだ。由緒によれば「神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島と もいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約一千年前)に勅命によっ て現社地に御遷座致された。 」とされている。その経島はすぐ目の前にあってウミネコの生息地となっていた。対して島根半島の東の端の美保関の美保神社は、朝日をむかえるのにふさわしい場所である。

日御碕神社

猪目洞穴

日御崎からすこし戻り鵜鷺(うさぎ)へと向かう、ここに大国主が最後を迎えたという猪目洞穴があり「黄泉の穴」ともいわれている。

神々の国ご案内「古代日本の出発点」より引用

黄泉の穴…大国主が殺された洞窟か ? この大洞窟は猪目湾の西端に位置し、凝灰岩の海蝕によって造られ、東方に開口している。古く出雲風土記の「黄泉の穴」に当たると推定され、数々の怪談が伝えられていた。
去る昭和23年に船揚げ場の拡張工事をしたときに、凝灰石の微砂、石片、石塊などの堆積層から多数の人骨や遺物が出土した。出土品は弥生時代から古墳時代にかけてのもので人骨は十数体あり、屈葬と伸展葬の両式が見られ、腕にはめた貝輪やたかつき、大小のつぼ等の副葬品が多数あった。地元の人はこの洞窟を「皇泉の穴」と言っている。

このように、卑弥呼のようなシャーマンかと思われるような人物の骨がゴボウラ貝の腕輪とともに発見されている。これが4月29日に開館する「出雲弥生の森博物館」(そばにある西谷墳墓群には山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中している。)で展示公開される予定なので是非見てみたい!(ゴホウラ貝は奄美大島より南にしか生息していない貝で祭祀の道具です。)詳しくは「赤椀の世直し」へ

カテゴリー: 邪馬台国 パーマリンク