出石町から加悦町へ「天の 日矛 」を訪ねる 2

日矛 と 古代丹波王国 2010年4月8日

出石から東に向かい山を三つほど越すと「加悦町」(現;京都府与謝野町)に到着だが、日矛 加悦町古墳公園なんとこれで「かや」と読む。伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅又は任那とも表記された。つまり「かや」の人が住んでいた町である、ここに古代弥生時代の墳墓をはじめその後の古墳群を公園化した「加悦町古墳公園」がある。

加悦町古墳公園の中心的存在は、全長145mの蛭子山古墳1号墳だ。古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後円墳で、三段墳丘は葺石が敷かれ、埴輪が並べてあったとされている。
その他、いくつも古墳が復元整備されている。

しかし私が一番注目するのはこの公園の南で発見された「日吉ケ丘墳墓」だ。
日吉ケ丘墳墓弥生時代中期後半(紀元前1世紀)に築かれた墳墓で墳丘は長方形、長辺約32m、短辺はそれぞれ17mと22m、高さは約2.7m。墳丘の裾に平たい石が貼り付けたこの地方独特の墓制で、方形貼石墓(ほうけいはりいしぼ)と呼ばれている。この墳墓は、同時期では吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次いで全国で2番目に大きい。つまり弥生中期の王の墓というわけだ。

墳丘のやや南よりに大きな墓壙(約5.2mx3.2m)が築かれ、そこから「朱」と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土している。つまり「朱」と「管玉」ということは弥生後期の最大墳丘墓「楯築遺跡」と共通しており吉備と丹後は強い関連があったのではないか?という疑問が生じる。

岡山には賀陽町という町が存在し、その語源は「かや」とされている。そして「吉備津彦」を祀る「吉備津神社」の神官家は賀陽氏であり、古代吉備と「かや」そして丹波との関係は並々ならぬものがあった思うがどうだろうか?。

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