5月例会バス旅行「謎の古代丹波国を訪ねる 元伊勢籠神社」報告

2012年6月9日

5月例会として企画された丹波籠神社にいってまいりました。

手水処
まずは口をすすぎます
朝7時半に岡山駅を出発し約4時間、無事宮津に到着いたしました。食事をすませ本日のメインイベント「籠神社参拝」です。日本三景のひとつ「天橋立」のある宮津ですが、3.6kmの砂嘴と松並木はじつは籠神社への参詣道なのです。神道五部書(しんとうごうぶしょ;伊勢神道(度会神道)の根本経典)の一つ、『倭姫命世記』に語られる天照の遷幸に登場する吉佐宮に比定される籠神社ですが、同様に登場する吉備名方浜宮の内宮伏見禰宜に同伴されての歴史的参拝です。

正式参拝
正式参拝中
私は初めての体験でしたが全員着席して正式参拝をさせていただきました。祝詞に続き、若い巫女さんの舞が披露され厳かな気分にひたりました。さてこの直後、さっそく海部家82代当主海部光彦氏が登場し簡単なお話がありました。神代からの直系と記された本系図(国宝)を持つ海部氏ご当人の口から何が語られるのか興味津々です。そして大変重要?なお話を伺いました。特に注目は、『倭姫命世記』に語られる吉備名方浜宮について否定的なお考えだったということです。それは二十数か所に渡る遷幸先そのものを否定するものではなく吉備だけがちがうというお話でした。さあこれをどう考えたらよいか、これは後ほど私の感想を述べてみたいと思います。

真名井神社前 参加者集合
真名井神社前 参加者集合
さて、籠神社の元宮とされる奥宮「真名井神社」に全員で参りました。籠神社より北東へ徒歩3分ほどで到着です。古代信仰の対象とされる巨大磐座、Net上で話題の六芒星(ダビデの星)を持つ石版のエピソードなどに触れながら最後に集合写真を撮りました。このあと、海部宮司のお話を聴く組と天橋立股覗きのできる傘松山へ登る観光組に別れての行動となりました。

海部宮司
勘注系図(レプリカ)を解説する海部宮司
境内敷地内のお宅?にあげていただきしばらく待っていると、資料の準備ができましたということで奥の小ホールに案内されました。そして海部宮司の二度目のご挨拶に続いて係りのかたがいよいよ系図をもって入られます。系図は2本、本系図と勘注系図で縦にとても長いものが用意された長机に丁寧にのばされていきました。はっきりとしたことは聞き漏らしましたが、たぶん「レプリカ」であるもののそのレプリカにも文化財としての価値を認められるというようなことでした。正直とても暑い日で汗がいつぽたっといくかと思うと気がきではありません。
 海部宮司の映像は以下にご用意しておりますのでご覧ください。今回の映像は吉備歴文会メンバーのみ閲覧可能という設定にさせていただきます。あしからずご了承ください。
ご覧になるには下記をクリックして
海部宮司の映像
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さて、今回の海部宮司のお話を伺っての感想を少しまとめてみたいと思います。海部家は天の火明命を祖とする家系でありそれは物部氏の系譜であるということです。火明命と饒速日命が同一であることは映像のなかでもお認めでしたが一歩すすめて大物主と饒速日が同一かという疑問にたいしては「そうかもしれないしそうでないかも?」とことばを濁されました。また新羅4代王昔脱解の丹波出自説についても同様で、まもなく出版される伴としこ氏の新刊に注目してくださいとのことでした。宮司の発言でもっとも注目したいのは家系に口承で伝えられるお話なわけですが、初対面の我々にはいっさい漏らしてはいただけなかったという印象です。それ以外のお話で考古学の知識に係わる部分はたぶんどなたかから得たお話という感じですので慎重に聴かなければと思いました。特に最初に語られた吉備名方浜否定説の部分は最初はショッキングでしたが、その理由を伺うと奈良から伊勢までの経路としては吉備だけが方向違いである点と、古代(紀元200前後?)の行幸は大行列(200人以上)であるから吉備は遠過ぎるというものでした。残念ながらどちらも否定論の根拠としては説得力の欠けるものです。また古墳の数が吉備より丹波が1.5倍ほど多いとのご認識でしたが、実際はその逆であったり、古墳そのものも首長墓と後期のそうでないものを考えれば数の比較も単に土木工事力(経済力)のある一面を示すにとどまるものと考えます。また「日ユ同祖論」に関しては肯定的なお考えとの印象で、これが口伝に根拠が求められるのか否が大きな問題です。また吉備との関係については黒媛伝説に登場する海部直が間違いなく丹波の海部氏と深い関係にあるとのご認識で私も同感です。ただ祖神である天火明命が丹波出身かのように錯覚しがちですが、そうであったとするには根拠は希薄であらゆる可能性が否定できないのが現状かと思います。
いずれにしても、平安初期に公文書としてこの系図が認められているということと伝世鏡の存在から、2000年近く繫がれてきた家系でありこの口伝も存在そのものも大変貴重で歴史の鍵のひとつを握っておられるという印象を確認することはできました。