謎の「秦氏」?

「兜率天の巡礼」の舞台、赤穂大避神社は秦河勝を祀る

 司馬遼太郎のデビュー作「ペルシャの幻術師」表題の短編集に収録された「兜率天の巡礼」という話には秦氏に関して大変興味深い内容が含まれている。以下、磯貝勝太郎氏の解説の一部を引用する。

 昭和24年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会い、その紳士は司馬の事を知らずに「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。当時、ザビエルの日本上陸400周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。

司馬氏が影響を受けたのは仏教史学者で大親日家の英国のエリザベス・ゴードン夫人が唱えた「景教=秦氏」論だろう。彼女は、高野山(真言宗)と景教のつながりを信じて1911年に中国西安の景教碑の複製を寄贈し、その横にゴードン夫人の墓がある。京都の太秦には秦河勝建立とされる広隆寺が秦氏の氏寺とされ、その境内には大酒神社があった(現在は近所)。ゴードン夫人によればこの謎の技術集団が最初に乗り込んだ本貫地がこの赤穂市坂越でありその印としてこの大避神社が現存するということである。上写真の下部に見える額は元宮内庁式部職楽部岡氏の奉納で樂祖秦河勝の後裔と自称されているのが興味深い。(楽部とは、宮中の雅楽の演奏・演舞を担当、楽部の首席楽長、楽長、楽長補、楽師は重要無形文化財保持者に認定される。かつては、東儀氏、上氏、園氏等の世襲職であった。)
児島高徳 墓所景教と秦氏の考察は次項に譲るとして、この山の中腹に妙見寺という寺があり、そこになぜか、岡山にゆかりの深い児島高徳の墓所があった。南北朝時代の軍記「太平記」に登場する児島の林出身の武将で岡山では「院庄の忠義桜」のエピソードでおなじみの人である。しかし「太平記」しか記載がないとされて児島高徳の実在性を疑う議論もあるという謎の人物である。由緒によれば熊山の戦いで深手を負った高徳はここ坂越に軍を構えていた「官軍」に身をよせて結局ここで亡くなったということである。