岡山 登山 県北の山を一周?

岡山 登山

新庄村の金ヶ谷、朝鍋鷲ヶ山から東西粟倉の鍋ヶ谷、後山まで! 2010 Nov.23~25

岡山 登山 金ヶ谷

祝日の23日は生憎の雨模様、そんな中新庄村の山の駅の前の登山口から金ヶ谷山(かねがたにせん)を目指し登り始めた。岡山国体の登山競技会場として整備されたコースだそうだ。渓流沿いに歩いていくと左右の林が段々畑のようになっている。これは「たたら山内」の跡に違いないだろう。だって地名からして「金ヶ谷」なのだから。車が走行可能な林道が延々と続く、もちろん一般車は入っちゃいけないのだが、道を間違えたかと思いながらやっと登山口の立派な看板をみつける。ここからよく整備された道を1時間ほどがんばると毛無山からの縦走路に飛び出す。そこから右へしばらくがんばると写真の金ヶ谷山頂だが、稜線上の小ピークで展望もあまりない。雨のしょぼ降るなか「特上巻き寿司」で元気をつけた。

朝鍋鷲ヶ山縦走路をしだいに下りてゆく、落ち葉がつもって滑りそうだが慎重に進む。すこし開けた場所から次の目的地の朝鍋鷲ヶ山(あさなべわしがせん)頂上までのゆるやかな山容が見えた、あとすこしである。一踏ん張りするとそこに到着した、そしてそこでまったく想像しなかったものに出くわした。

クマじゃない!それはトラックだった。その濃い灰色の大きなトラックはどうやら自衛隊のものである。しかも隊員らしき人物が展望台の下で雨の中なにやら作業をしている。そのすこし華奢な迷彩服の人物は妙齢の女性であった。(ニ度びっくり)訓練中なのだろうということで、彼女と記念撮影することは遠慮して雨中の展望台に上り雲しか見えない事を確認し下りてくると、テントに入ってしまった。ほとんど人の気配がしないのは一人だったのだろうか?まあそんな野営訓練もなかろうが。

さて下りだが、車が上がってくるくらいだから当然林道が続いていた。登山道はないものかと探すが最後までなかった。実は山頂から三平山方面へしばらく行くと下りの登山道があるらしい、でもそれはかなり遠くに下りるようなので、この林道が今回の正解だった。舗装道路にでて右に下っていくと20分?ほどで野土路トンネル口にでる、そこからしばらくおりていくと出発地の山の駅に無事到着した。

翌々日には懲りずに岡山最高峰への挑戦となった。偶然なのか一昨日の出発地の新庄と今回の西粟倉はどちらも平成の大合併を拒否し独自路線を選択した「村(そん)」である。今日は駒ノ尾から後山への縦走を予定しているのでダルガ峰林道を若杉峠方面から登山口に向かった。

この登山道はよく整備されていて半分くらいは階段がつづく、家内曰く階段のほうがしんどい!約50分で駒ノ尾山頂に到着する、ここも石のベンチや眺望のための整備がよくされている。さてここから後山まで3.1kmの縦走路で、途中「鍋ヶ谷山」と「舟木山」という二つのピークが丁度約1000mごとにある。そこを休憩ふくめて1時間20分ほどで後山山頂に到着した。ここは兵庫県側からも登山道がありまたの名を「板場見山(いたばみやま)」とも呼ばれる。暫くの休憩のあと車の待つ登山口に向かった。このあたりの山ではよく鹿をみかける、今日もいたるところに鹿のふんがあるのですぐそばにいるはずなのだが、こちらは熊除けの鈴をチャランチャランいわしているので出くわす事は望めない。往復10kmを越える健脚コースであった。

さてここで気になるのは山名である。偶然岡山のはじっこの山頂を巡ったのだがそれが「金ヶ谷、朝鍋、鍋ヶ谷、後山」でいづれも「たたら」に語源を求められる。前ログでも述べたが、岡山中にたたらに関する地名が残っていると改めて感じたしだいである。

金屋子神 考察行脚 その弐

金屋子神 はたたらの神様

越畑 金屋子神 社 「たたら」とは明治時代に洋式の製鉄法が導入されるまで、古代から江戸時代まで続いた製鉄法のことであることは皆ご存知だと思う。しかし、いったいどこにあるのかが判り難い、が実はこれが中国山地に集中している。つまり材料の山砂鉄が必要で、それが豊富であるとともに、それと同時に燃料になる木材が不可欠だったのだ。wikipediaによると「近世以前の中国山地では踏鞴(たたら)製鉄の為に禿げ山となった地域が珍しくなかった。また原料となる砂鉄の採取(「鉄穴流し」かんなながし)は山間部の渓流を利用して行われた為、流出する土砂によって下流の農業に大きな影響を与えた。この為、鉄山師は操業に先立って流域の農村と環境破壊に対する補償内容を定める契約を交わし、冬のみに実施することとなった。 だが、木を伐採する際は計画的に行っているので、辺りの山すべてを禿山にするわけではない。」となっている。

まあ、そこら中にあるといってよいのだろう。今回はまず、地図上に「金屋子神社」との記載のある越畑を訪ねた。布施神社奥津温泉から東に笠菅峠を越えるとそこが越畑なのだがマピオン地図によれば「金屋子神社」のほかに「三鏡神社」「吉備津宝築神社」がみえる。集落を北に過ぎると家もまばらになり越畑キャンプ場への分かれ道も香々美川に沿って直進して約1~2km右側の林の中に写真の祠がひっそりとある。必ず見過ごすので気をつけて!ここで気になるのは「香々美川(かがみ)」、「三鏡」、「吉備津」そしてなんといっても「越畑」そのものである。時代が同じだとは言えないが、鉄の産地であったとともに鏡の産地だった可能性が高い。そして「古志の秦」なのだ。

さて、峠越えで奥津に戻ると奥津歴史資料館に立ち寄る。書籍棚に郷土史でたたらに係るものがあるのでこれで少し勉強する。さてつぎは富西谷である。このあたりは旧「富村」なのだが昔はずいぶん直接的な名前だなあ「豊かな村だから富村かあ?」と思ったものである。しかし今では出雲大社社家富家との関係だと考えている。此の地には気になる地名が残っている。「鍛冶屋、札場、白賀、そして布施神社」などである。布施神社は古くは三塚(みつか)の壇(だん)の山頂にあり、永享年間(1429?1440年)に現在地に移され、富ノ荘(現在の富村、奥津町、上斎原村、鏡野町の一部)の総鎮守であったと伝えられている。字白賀そこには三塚壇弥生墳丘墓があり特殊器台も発見されており吉備楯築と出雲西谷の中間結節点だと考えられる。布施臣は安倍臣からの分流で新羅系の鉄関連氏族と考えてよいだろう。そして白賀&白賀川も新羅(しらぎ)の転訛とするのが常識的だ。

ここから7kmほど北西に「鍛冶屋谷たたら遺跡」(のとろ原;のとろ温泉の奥)があり明治まで操業していたというがこの運営者が徳山家(集蔵)である。もちろんここにも「金屋子神社」がある。この地から北に峠をこえると蒜山別所そして新庄に抜ける手前が上徳山で徳山神社があり、徳山家はここの人である。そしてそこにも「白賀&白賀川」が存在する。

この蒜山の白賀から西南へ峠を越えるとそこは野土路で車が何台もならぶ名水で有名なところ、そこの少し南にある谷が「金ケ谷」でその渓流沿いにあきらかな「たたら山内跡」が存在する。そして新庄村に入ってゆく訳である。どうでしょう鉄に関連した地名がいくらでも続く、そして「シラキ」に関係するものがどんどんでてくる。さて最後になるが「新庄」は「しらき→新城→新庄」の転訛だとしたらどうでしょう?とまあ、そこら中にあるといってよい訳である。

天児屋 たたら 跡から東へ

金屋子神考察行脚 天児屋 たたら 跡

『鉄山秘書』のなかの「金屋子神祭文」には,おおよそ次のような伝承がある。

(1) 金屋子(カナヤゴ)神の示現

大昔のこと, 播磨国宍相(粟)郡岩鍋という山間の村では大旱(ヒデリ)が続き, 村人は困って山に集まり雨乞いをしたところ, 天から神が示現して大粒の雨を降らせた。 村人がその神の名を聞いたところ, 「わたしは金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)ともいう金屋子神である」と明かす。天児屋 たたら 金屋子神そして,村人にタタラによって鉄を作ることを教え,様々な道具を作る技術を人々に授けた。そして,「これから西の方へ行き,鉄を吹き道具を作ることをさらに多くの人々に教えねばならない」と,白鷺に乗って天空高く飛び立った。

(2) 出雲国比田・黒田への飛来

その後, 金屋子神は出雲国に飛来し,能義郡比田の森に降り立ったと言う。西比田の黒田というところの桂の巨木に羽を休めていたところ,安倍の祖-正重という者が犬をあまた引き連れて猟に来ており,白鷺の発する光明を見て正重の犬たちが驚き吠えた。そして,安倍正重はおそるおそる問うた。「あなたは誰か,この地に何をしに来たのか」。すると神は「われは金屋子の神なり,ここに住いして『タタラ』を仕立て,鉄(カネ)を吹く技を始むべし」と告げたという。

(3) 出雲タタラのはじまり

金屋子神のお告げを受けた正重は, 長田兵部朝日長者にことの次第を話し, まず桂の木の脇に金屋子神の宮を立てた。以後正重はこの宮の祭祀を司り, 朝日長者は以後「タタラの村下(ムラゲ)-総指揮」に任ずることとなった。タタラの高殿の建設には,金屋子神の多数の眷属神が手助けする。最初に現れて七十五種もの必要な道具を作ったのは,七十五人の子供の神であったという。

 

異伝によると,播磨の岩鍋に示現した金屋子神は, ここで「鍋を鋳た」ものの安住すべき山がなく,白鷺とともに西方に飛び去ったとも言われている。とにかくである。その後ここ出雲国の比田では,朝日長者が砂鉄と炭を集めて吹けば,金屋子神の神通力の致すところ「鉄の涌くこと限りなし」ということになった。これが金屋子神によるタタラ製鉄が, 出雲国一帯へ拡大していく端緒となったものである。

金屋子神降臨の地 記念碑金屋子神とはたたら製鉄の神様である、詳しくは上記引用のSource「紙老虎的世界」さんのHPを参考にしていただきたい。たたらの山の民のそばには必ず(多分)金屋子神が祀ってあるのだがその本宮が島根県安来市広瀬町西比田にある金屋子神社である。このそばに金屋子神話民俗館があり訪ねてみた。ひっそりとした山奥に立つコンクリートの民族館では店番の女性が迎えてくれたのだが五月連休なのに、客は一人の男性と我々だけであった。ここに上記の祭文が展示されているが、これによればその昔播磨の岩鍋に始まった製鉄が出雲に伝えられたというわけだ。

金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)という別の名前を持つ金屋子神だが、金山彦は美作一ノ宮「中山神社」の祭神でありまたの名を「南宮」という、岐阜「南宮大社」も祭神は同じ、さらに「吉備津神社」と「諏訪大社」は南宮と呼ばれている。中山神の伝説についても「紙老虎的世界」を参考に読んでみてください。つまり、播磨に始まった製鉄が吉備を経て出雲に至ったわけである。

こうなると播磨の岩鍋を訪ねねばなるまいというわけで、後日、今度は兵庫県千種町の岩野辺にフィールドワークだ。

天児屋たたら山内模型岡山から湯の郷をぬけて東粟倉、ここまで約2時間30分、岡山県の東北の極地である。後山の麓に向かい日名倉山の峠を越えると兵庫県、下っていくとそこは千種町、そこから数キロ東の集落が目的地の岩野辺(岩鍋)である。残念ながらこの付近には写真の巨大記念碑しかモニュメントはないが、千種町から北7kmほどの西河内に、「たたら学習館」と「天児屋鉄山跡たたら公園」がある。近世まで操業されていたということでその山内と呼ばれる製鉄所の石垣などがきれいに残されている。(右写真はそのジオラマ)ここで生産された天児屋玉鋼が吉備に運ばれ長船の刀になったということらしい。実物は確認できなかったが、もちろんこの山内にも金屋子神は祀られているそうである。

ここから「金屋子神」&「中山神」(同一なのか時代が違うのかが不明だが同一勢力ではあると思う)が吉備の神宿に現れるという話は前ログの「謎の神宿を訪れる!」紙老虎的世界」さんのHPをご覧いただくとして、次は岡山のたたら跡を訪ねてみよう

出雲 弥生の森 博物館

出雲 弥生の森 博物館

出雲 弥生の森 博物館 四隅突出墓 模型邪馬台国の卑弥呼が生きた弥生時代後期、出雲に巨大な王墓「四隅突出型墳丘墓」が現れる。その王墓が並ぶ国史跡・西谷墳墓群の隣接地に4月29日、出雲 弥生の森 博物館が開館したのでさっそく訪ねた。(島根県出雲市大津町2760 Tel 0853-25-1841 ●休日毎週火曜日)

出雲の王の模型や葬儀の様子を復元した巨大ジオラマが、たいへんよくできているのだが、右の写真に注目していただこう。「四隅突出墓」の上に4本の太い柱を建てている様子が再現されている。これは諏訪大社の御柱と同じではないのか?その関連についての解説はなかったが埋葬施設の周りに4本の柱穴が存在し、祭祀に重要な道具だてであることはちがいない。さらに吉備「楯築弥生墳丘墓」との共通点が多く指摘されており、出雲と吉備の関係を伺わせるという。

御柱祭でおなじみの諏訪大社は南宮と呼ばれているが、一般的な南宮大社(なんぐうたいしゃ)は、岐阜県不破郡垂井町に鎮座する美濃国一宮の神社で「延喜式神名帳」にも仲山金山彦神社として名が見える。そして我が吉備の美作一宮の中山神社も「南宮」とよばれ御祭神は金山彦である。四本柱さらに備中一宮「吉備津神社」も「南宮」と呼ばれるのだ。つまり「南宮」と呼ばれる宮は皆「鉄」に関係しているわけだが、この西谷の王墓もその根源的な存在ではないのだろうか!

この「四隅突出型」と「加悦町の墳丘墓」そして真打ち「楯築」の三つの弥生墳丘墓の関係が非常に重要だと思う、どれも当時として巨大であり後の「前方後円墳」誕生への要素を備えているからだ。特にこの「西谷3号墳」の上には多数の吉備特殊器台がおかれていたのだが、こちらの解説では「吉備の人たちもこの大きな焼き物を持参して御祭りするほどこの出雲の王は影響力のある大王であった」としている。が、すこしひいき目な見解だと思う。なぜなら、それ以前の出雲には大きな墓制度が存在しないからだ。『日本書紀』崇神天皇60年7月ノ条に次のような話がある。

天皇はタケヒナテルノミコト(武日照命)が天から持たらした出雲大神の神宝を見たいと言われ、タケモロスミ(武諸隅)を出雲に使わした。このとき、出雲の支配者だったイヅモノフルネ(出雲振根)が北九州の筑紫へ行っていて留守だった。その留守に弟のイイイリネ(飯入根)が勝手に出雲の神宝を朝廷に奉ってしまう。そこで、兄弟の間に争いが生じ、振根が飯入根を殺害してしまう。事件を知った大和朝廷は、タケヌナカワノミコト(武淳河別命)とキビツヒコ(吉備津彦)を出雲に派遣してイヅモノフルネを誅殺してしまう。

この話をまとめるとタケヌナカワノミコトとキビツヒコが出雲を制圧したということである。 吉備津彦が新羅系ヒボコ族ではないかと私は考えているが、武淳河別命も茨城県結城の健田須賀神社に須佐之男命と共にまつられており(他にあまりヒットしないけど)絹産業の歴史をもつ此の結城との関係からすれば同系と考えておかしくない。また安倍臣、布施臣、竹田臣の祖となっているのだが、岡山県鏡野町富の布施神社は字(あざ)を「白賀」(シラギの転訛)という鉄の産地であることなどから「新羅系」のまっただ中といってよい。

つまり「吉備特殊器台」を祭祀の中心に受け入れたということは、吉備の宗教観を受け入れたことに他ならず、この記紀に伝える出雲神宝事件の現れと考えてもよいのではないだろうか。

猪目洞窟 人体骨 ごほうら貝腕輪

この博物館のもうひとつの見物は猪目洞穴から発掘された遺物だ。大国主が最後を迎えたという猪目洞穴(鵜鷺:うさぎ)は「黄泉の穴」ともいわれている。出土品は弥生時代から古墳時代にかけてのもので人骨が十数体あり、屈葬と伸展葬の両式が見られ、腕にはめた貝輪やたかつき、大小のつぼ等の副葬品が多数あった。地元の人はこの洞窟を「皇泉の穴」と言っている。この写真のように、卑弥呼のようなシャーマンかと思われるような人物の骨がほぼ完全な姿でゴホウラ貝の腕輪とともに発見されている。

意宇郡 八雲立つ風土記の丘 界隈

意宇郡 界隈 2010年5月4日

意宇郡(おうぐん)は出雲国(現;島根県東部)にかつて存在した郡である。郡名については、「八束水臣津野命(やつかみずつぬのみこと)」が国引きを終えた際に「国引きを意恵(「おえ」、終わるの意味)」と言ったことから「意恵郡」のち「意宇郡」と呼ぶようになった、と伝えられている(『出雲国風土記』)

岡田山古墳1号墳意宇郡は松江市街から10kmほど南のあたりで古代出雲の重要な施設が集中している。近年、出雲国庁跡が発見され現代でいう県庁所在地であったことも判明した。最初に訪ねるのは「八雲立つ風土記の丘展示学習館」そしてそこに整備されている古墳公園「岡田山古墳群」だ。その1号墳(写真)は全長24mの前方後方墳で、全国的にも有名になった「額田部臣」という文字がはいった大刀や馬具、鏡が見つかっている。しかし古墳としては5~6世紀のものであることから出雲族に乗り込んで後に同化していったグループのものではないかと推察する。

この風土記の丘エリアの西400mほどに「神魂神社」がある、これを「かもす」と読む。
神魂神社通称”大庭の大宮さん”と呼ばれイザナミノミコトを祭る神社で、意宇六社(おうろくしゃ)の一つに数えられる。前回は大雨の中の夕暮れ時に訪れゆっくりできなかったが本日はありがたいほどの晴天であった。本殿は天正11年(1583年)に再建、現存最古の大社造りで国宝とされ、いかにも重厚で歴史を感じさせる。

由緒によれば天穂日命によって創建されている。天穂日命(あめのほひ)は天の安河原で、天照大神と須佐之男命が誓約をした時に生れた五神の二番目。出雲を治めるため、高天原から派遣されたが、大国主命に懐柔され、三年たっても復命しなかった神、そして出雲大社の神官「出雲国造家」の祖先ということである。この神官の家系は、出雲国造として25代までこの神魂神社の祭主を勤めていたが、西65kmの杵築の地に出雲大社が創建されると、祭主として大社に移住した。しかし、その後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のためこの神社に参向するという。

司馬遼太郎氏「生きている出雲王朝」に紹介される宮司「秋上氏」は出雲大社神官「千家家」に対して独特の感情をもっているのだが、さてどうしてなのだろうか。

神魂神社古伝祭依り代吉田大洋氏著書による富氏の伝承では、「物部氏とヒボコ系吉備津彦の軍勢が出雲に侵攻してきて、出雲神族の主たるものはトドメを刺された。このときの総指揮官が神魂神社の宮司秋上氏の先祖で、秋上氏は今もそのことを自負している」という。吉田大洋氏によると、「彼らの最前線基地が神魂神社で、そこを拠点に出雲人の監視を始めた。ホヒ族の国造家では代が変わるごとに熊野大社に赴き、神火神水の儀式を受けることになっていたが、崇神天皇の時に起きたという出雲の神宝事件以降、儀式は神魂神社で行われることになったという。ヒボコ族が出雲に入ったことは、吉備部臣、白髪部臣が吉備から出雲にかけて分布していることでもわかり、白髪・白髭の名のつく神社の祭神はヒボコであるという。また、出雲の松本一号古墳(飯石郡三刀屋町)と神原神社古墳(加茂岩倉の近く)は、備前車塚古墳と非常に似ており、両古墳の被葬者は吉備から進駐した指揮官だろうといわれているという。ただ、現在物部氏などは神魂神社の秋上氏や石見一の宮の物部神社などその存在感に大きなものがあるのに対して、ヒボコ族の影は薄いといえるであろう。風土記などを見ても、ヒボコ族の影は薄い。これは、ヒボコ族とスサ族が同化していたとするなら、ヒボコ族は出雲ではスサノオを前面に出したと理解すべきではないだろうか。」としている。いずれにしても出雲と吉備との関連の謎を解く大きな鍵をこの神社が握っているような気がする。

八重垣神社ここから1km西には今若い女性に大人気のパワースポット「八重垣神社」がある。出雲の縁結びの大神として知られ、八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、稲田姫命の夫婦が主祭神である。奥の森のなかに稲田姫が日々水を召し姿を映されたという鏡の池がある。縁結び、心願成就占いの池として占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、早く沈むと吉兆ということらしい。私が見ている間も次々と占う人が続いていた。夏の間は姫はこの奥の院に避暑されているらしい。

此の地を日本史上初の結婚式ゆかりの場所としてすぐとなりに「平安閣」があったのには、ついニヤッとしてしまった。

美保神社 美保関は古代の港

美保神社 の祭りは海にでる! 2010年5月3日

美保神社 (みほじんじゃ)は、島根県松江市美保関町にある神社である。式内社で、旧社格は国幣中社。
事代主神系えびす社3千余社の総本社である(蛭子神系のえびす社の総本社は西宮神社)。えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。また、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多い。

美保神社 諸手船(もろたぶね)神事

ゴールデンウィークを利用しての一泊旅行となった、最初の目的地は美保神社である。鳥取県米子から弓ケ浜を北に走るとそこはいま「げげげの女房」(NHK)で再び注目を集める境港、その先の境水道を越える橋を渡るといよいよ島根県美保関町である。快晴の日本海を右に見ながら10分ほど走ると美保関港に到着、町の中心に美保神社はある。えびすさんの総本社だけにその社は大変りっぱなもので格の高さを感じさせる。ご祭神は右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫命が祀られている。この事代主神(ことしろぬし)があの魚釣りが趣味のえびすさんなのだが、破顔一笑の笑顔とは裏腹に悲劇の王子なのである。

出雲にとっての悲劇「国譲り」にちなんだ御祭りがここに伝わる「諸手船(もろたぶね)神事」と青柴垣(あおふしがき)神事だ。美保神社諸手船神事は、大国主命が国譲りの際に美保関の事代主命に諸手船で使者を送ったとの故事にちなみ、毎年12月3日に行なわれる。

そして国譲りの決断を大国主が息子に振ると「どうぞ」という事代主、じつはこれに承服しかねた事代主は「承知した」といいながら海に入水自決したというエピソードを忘れぬよう祭りにしたのが青柴垣神事で毎年4月7日に行われている。前者は神社主催で後者は氏子主催の御祭りであるという。いつのころから、このようなドラマティックな祭りを始めたのかは定かではないが、天孫族の併合を受け入れながら心の底深くにこの悲劇を決して忘れまいとする出雲族の精神が綿々と伝えられているのだと感じる。

ここから2kmほど先に島根半島の東端となる美保関灯台がある。西端の日御碕とならんで古代よりの海上安全を担ってきたのだろう。いまはレストランやお土産コーナーもあり多くの観光客で賑わっている。灯台の先から見渡すと海が青くひろがる、今日の美しい日本海を眺めながら、日本列島の大部分を治めていたのであろう出雲のここが中心的な地だったのかと思いを巡らせた。

大嘗祭 って知ってますか?

大嘗祭 悠紀(ゆき)の国・主基(すき)の国 2010年5月

大嘗祭 (おおにえのまつり)とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。践祚 大嘗祭 ともいい、「だいじょうさい」「おおむべのまつり」とも呼ぶ。(Wikipediaより)

その年の新米を神に捧げる新嘗祭は毎年の行事だが、天皇が即位して最初に行うものを 大嘗祭 というわけで、それこそ天皇一世一代の祭祀なのだ。その祭祀に供える米を収穫する斎田を 悠紀 の国 ・ 主基 の国 という二ヶ所の国の郡に占いで決めるのだが、約30年前の「古代吉備国論争」(山陽新聞社主催)のなかで池田彌三郎先生が大変興味深いお話をされている。(ちなみに我々夫婦の大学時代の文学部教授で江戸っ子としても知られていた)

大嘗祭 主基の国まず、「悠紀・主基」の語源について「行き、過ぎ」つまり朝廷にとっての「未来の国、過去の国」ではないかとされている。そして確実な文献に残るのは天武紀からなのだそうだが、醍醐天皇から特定の国に限られているという。(現在は京都より悠紀は東、主基は西の県から選ばれている。)その国とは「悠紀」は近江、「主基」は備中か丹波に決まっていたのだ。また、そのすぐ前まではそれに加えて「備前」「美作」「播磨」を順繰りにまわっている。先生のご意見の趣旨は吉備国は播磨までがその領域に含まれていて、吉備津神社がそれを表しているというお話であった。

私はこれらの話を読んで思った、この斎田に選ばれる国々「備中」「丹波」「備前」「美作」「播磨」そして「近江」とは天のヒボコに強い縁のある場所ばかりではないかと。しかも天武天皇が新羅系であることもこれに重なる。

つまり奈良大和にある朝廷の母国は吉備だったのではないだろうか。また、崇神天皇の御代にアマテラスが安住の地をもとめてあちこち巡幸するわけだがその初期に回ったのが丹波と吉備であることも思い出される。そして「主基の国」とはその字を素直に読めば「主(おも)な基(もと)の国」ということである。

出石町から加悦町へ「天の 日矛 」を訪ねる 2

日矛 と 古代丹波王国 2010年4月8日

出石から東に向かい山を三つほど越すと「加悦町」(現;京都府与謝野町)に到着だが、日矛 加悦町古墳公園なんとこれで「かや」と読む。伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅又は任那とも表記された。つまり「かや」の人が住んでいた町である、ここに古代弥生時代の墳墓をはじめその後の古墳群を公園化した「加悦町古墳公園」がある。

加悦町古墳公園の中心的存在は、全長145mの蛭子山古墳1号墳だ。古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後円墳で、三段墳丘は葺石が敷かれ、埴輪が並べてあったとされている。
その他、いくつも古墳が復元整備されている。

しかし私が一番注目するのはこの公園の南で発見された「日吉ケ丘墳墓」だ。
日吉ケ丘墳墓弥生時代中期後半(紀元前1世紀)に築かれた墳墓で墳丘は長方形、長辺約32m、短辺はそれぞれ17mと22m、高さは約2.7m。墳丘の裾に平たい石が貼り付けたこの地方独特の墓制で、方形貼石墓(ほうけいはりいしぼ)と呼ばれている。この墳墓は、同時期では吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次いで全国で2番目に大きい。つまり弥生中期の王の墓というわけだ。

墳丘のやや南よりに大きな墓壙(約5.2mx3.2m)が築かれ、そこから「朱」と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土している。つまり「朱」と「管玉」ということは弥生後期の最大墳丘墓「楯築遺跡」と共通しており吉備と丹後は強い関連があったのではないか?という疑問が生じる。

岡山には賀陽町という町が存在し、その語源は「かや」とされている。そして「吉備津彦」を祀る「吉備津神社」の神官家は賀陽氏であり、古代吉備と「かや」そして丹波との関係は並々ならぬものがあった思うがどうだろうか?。

出石町から加悦町へ「天の日矛」を訪ねる 1

但馬丹波の古代を訪ねる 2010年4月8日

今、私の注目は「天の日矛」に集中している。この人物(神?)はご多分にもれず謎だらけなのだが、いろいろな方のご意見を集約していくとどうも古代吉備の代表選手ともいえる「吉備津彦」と同一であるということらしい。そんなことってあるだろうか?もしこの謎のキーが解ければ断然話しがおもしろくなるに違いない。出石神社そんな訳で「天の日矛」ゆかりの地を訪ねてみることにした。

最初の目的地は但馬国一之宮の「出石神社」、御祭神は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)、出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)である。日本書記には、「(新羅の王子である)『天日槍』は垂仁天皇の御代に日本に聖王がいると聞いて播磨国に来朝し、『八種の神宝』を奉じたので、天皇から好きなところに住むことを許された。そこで宇治川を遡って近江国に入り、その後若狭国を巡り、但馬国に至り『出石』に居所を決めた」と記されている

また『古事記』には、以下のように伝えている。「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。出石神社男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。」

兵庫県出石町は城下町の風情を残す観光地で特に小さな皿にいくつも出てくる出石そばで有名だ。その地区から2kmほど北に神社はある。伝承ではこの地の豪族の娘を娶り出石の開発にも貢献したということでヒボコの本拠地である。

また朝鮮半島の意富加羅国の王子で10代崇神朝に渡来したと伝わる都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)も日矛と同一人物とされ、現在の敦賀を治め五十狹沙別大神として「気比神宮」に祀られている。

気比神社

写真の鳥居は城ノ崎温泉近くの円山川そばのその名も気比という集落にある気比神社(参照HP 玄松子の記憶)で神功皇后の伝承が残っているとともにすぐ近くに銅鐸出土地が存在する。

このように「アメノヒボコ」と同一人物で違う名前がもう二つもでてきたが、これが古代史のややこしいところだと思う。本当に同じなのか?その一族なのか?それとも違うのかとても悩ましい。特に「五十狹沙別大神」(いささわけ)が問題、吉備津彦が「五十狭芹彦」だからすごく似ている。もちろんこのくらいで同じ人などとはとてもいえないが、どうやらヒボコの吉備出雲への進攻が四道将軍として吉備を平定する吉備津彦と重なることがひとつのポイントなのだろう。ぼくがとくに注目しているのはその出生伝承で、吉備津彦
こと「桃太郎」が桃から生まれたということは周知だが、ヒボコの故国の新羅は卵生神話の本拠地であり彼が追いかけてきた阿加流比売神(アカルヒメ)もまた卵から生まれている。

梅原猛 の足跡を追って出雲を行く その3

梅原猛 の足跡を追って大社から海岸線を行く 2010年3月22日

稲佐の浜稲佐の浜は出雲大社のすぐ西にあり日本海が広がっている、そして言うまでもなくその先は朝鮮半島だ。大社の本殿の右奥に鎮座している大国主命はこの稲佐の浜の方(左)に向いている。そして記紀に伝わる「国譲り」の伝説の舞台になるのが此処だ。

タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。

なんだか訳のわからない話ではあるが、天孫族が出雲族を武力によって従わせたということで、これに承服しかねた事代主は「承知した」といいながら自決したという話だ。現在でも事代主を祀る美保神社でこのエピソードを忘れぬよう祭りにした青柴垣神事が行われている。

日御碕神社この「無血開城」のように語られる「国譲り」のエピソードに本当はどのような史実が隠されているのかが最も重要なところだと思う。

出雲の国でもっとも北にあるのは島根半島、この半島は東西に長く西の端に日御碕がある。稲佐の浜からは海岸沿いの道を20分走ると看板があり港へと下りて行く、そしてそこに日御碕神社がまるで竜宮城のように現れる。日御崎神社の下の宮はアマテラスを祀り一名日沈宮(ひしずみのみや)とも呼ばれて古来夕陽をはなむけするところだ。由緒によれば「神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島と もいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約一千年前)に勅命によっ て現社地に御遷座致された。 」とされている。その経島はすぐ目の前にあってウミネコの生息地となっていた。対して島根半島の東の端の美保関の美保神社は、朝日をむかえるのにふさわしい場所である。

日御碕神社

猪目洞穴

日御崎からすこし戻り鵜鷺(うさぎ)へと向かう、ここに大国主が最後を迎えたという猪目洞穴があり「黄泉の穴」ともいわれている。

神々の国ご案内「古代日本の出発点」より引用

黄泉の穴…大国主が殺された洞窟か ? この大洞窟は猪目湾の西端に位置し、凝灰岩の海蝕によって造られ、東方に開口している。古く出雲風土記の「黄泉の穴」に当たると推定され、数々の怪談が伝えられていた。
去る昭和23年に船揚げ場の拡張工事をしたときに、凝灰石の微砂、石片、石塊などの堆積層から多数の人骨や遺物が出土した。出土品は弥生時代から古墳時代にかけてのもので人骨は十数体あり、屈葬と伸展葬の両式が見られ、腕にはめた貝輪やたかつき、大小のつぼ等の副葬品が多数あった。地元の人はこの洞窟を「皇泉の穴」と言っている。

このように、卑弥呼のようなシャーマンかと思われるような人物の骨がゴボウラ貝の腕輪とともに発見されている。これが4月29日に開館する「出雲弥生の森博物館」(そばにある西谷墳墓群には山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中している。)で展示公開される予定なので是非見てみたい!(ゴホウラ貝は奄美大島より南にしか生息していない貝で祭祀の道具です。)詳しくは「赤椀の世直し」へ