意宇郡 八雲立つ風土記の丘 界隈

意宇郡 界隈 2010年5月4日

意宇郡(おうぐん)は出雲国(現;島根県東部)にかつて存在した郡である。郡名については、「八束水臣津野命(やつかみずつぬのみこと)」が国引きを終えた際に「国引きを意恵(「おえ」、終わるの意味)」と言ったことから「意恵郡」のち「意宇郡」と呼ぶようになった、と伝えられている(『出雲国風土記』)

岡田山古墳1号墳意宇郡は松江市街から10kmほど南のあたりで古代出雲の重要な施設が集中している。近年、出雲国庁跡が発見され現代でいう県庁所在地であったことも判明した。最初に訪ねるのは「八雲立つ風土記の丘展示学習館」そしてそこに整備されている古墳公園「岡田山古墳群」だ。その1号墳(写真)は全長24mの前方後方墳で、全国的にも有名になった「額田部臣」という文字がはいった大刀や馬具、鏡が見つかっている。しかし古墳としては5~6世紀のものであることから出雲族に乗り込んで後に同化していったグループのものではないかと推察する。

この風土記の丘エリアの西400mほどに「神魂神社」がある、これを「かもす」と読む。
神魂神社通称”大庭の大宮さん”と呼ばれイザナミノミコトを祭る神社で、意宇六社(おうろくしゃ)の一つに数えられる。前回は大雨の中の夕暮れ時に訪れゆっくりできなかったが本日はありがたいほどの晴天であった。本殿は天正11年(1583年)に再建、現存最古の大社造りで国宝とされ、いかにも重厚で歴史を感じさせる。

由緒によれば天穂日命によって創建されている。天穂日命(あめのほひ)は天の安河原で、天照大神と須佐之男命が誓約をした時に生れた五神の二番目。出雲を治めるため、高天原から派遣されたが、大国主命に懐柔され、三年たっても復命しなかった神、そして出雲大社の神官「出雲国造家」の祖先ということである。この神官の家系は、出雲国造として25代までこの神魂神社の祭主を勤めていたが、西65kmの杵築の地に出雲大社が創建されると、祭主として大社に移住した。しかし、その後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のためこの神社に参向するという。

司馬遼太郎氏「生きている出雲王朝」に紹介される宮司「秋上氏」は出雲大社神官「千家家」に対して独特の感情をもっているのだが、さてどうしてなのだろうか。

神魂神社古伝祭依り代吉田大洋氏著書による富氏の伝承では、「物部氏とヒボコ系吉備津彦の軍勢が出雲に侵攻してきて、出雲神族の主たるものはトドメを刺された。このときの総指揮官が神魂神社の宮司秋上氏の先祖で、秋上氏は今もそのことを自負している」という。吉田大洋氏によると、「彼らの最前線基地が神魂神社で、そこを拠点に出雲人の監視を始めた。ホヒ族の国造家では代が変わるごとに熊野大社に赴き、神火神水の儀式を受けることになっていたが、崇神天皇の時に起きたという出雲の神宝事件以降、儀式は神魂神社で行われることになったという。ヒボコ族が出雲に入ったことは、吉備部臣、白髪部臣が吉備から出雲にかけて分布していることでもわかり、白髪・白髭の名のつく神社の祭神はヒボコであるという。また、出雲の松本一号古墳(飯石郡三刀屋町)と神原神社古墳(加茂岩倉の近く)は、備前車塚古墳と非常に似ており、両古墳の被葬者は吉備から進駐した指揮官だろうといわれているという。ただ、現在物部氏などは神魂神社の秋上氏や石見一の宮の物部神社などその存在感に大きなものがあるのに対して、ヒボコ族の影は薄いといえるであろう。風土記などを見ても、ヒボコ族の影は薄い。これは、ヒボコ族とスサ族が同化していたとするなら、ヒボコ族は出雲ではスサノオを前面に出したと理解すべきではないだろうか。」としている。いずれにしても出雲と吉備との関連の謎を解く大きな鍵をこの神社が握っているような気がする。

八重垣神社ここから1km西には今若い女性に大人気のパワースポット「八重垣神社」がある。出雲の縁結びの大神として知られ、八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、稲田姫命の夫婦が主祭神である。奥の森のなかに稲田姫が日々水を召し姿を映されたという鏡の池がある。縁結び、心願成就占いの池として占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、早く沈むと吉兆ということらしい。私が見ている間も次々と占う人が続いていた。夏の間は姫はこの奥の院に避暑されているらしい。

此の地を日本史上初の結婚式ゆかりの場所としてすぐとなりに「平安閣」があったのには、ついニヤッとしてしまった。

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