金屋子神 考察行脚 その弐

金屋子神 はたたらの神様

越畑 金屋子神 社 「たたら」とは明治時代に洋式の製鉄法が導入されるまで、古代から江戸時代まで続いた製鉄法のことであることは皆ご存知だと思う。しかし、いったいどこにあるのかが判り難い、が実はこれが中国山地に集中している。つまり材料の山砂鉄が必要で、それが豊富であるとともに、それと同時に燃料になる木材が不可欠だったのだ。wikipediaによると「近世以前の中国山地では踏鞴(たたら)製鉄の為に禿げ山となった地域が珍しくなかった。また原料となる砂鉄の採取(「鉄穴流し」かんなながし)は山間部の渓流を利用して行われた為、流出する土砂によって下流の農業に大きな影響を与えた。この為、鉄山師は操業に先立って流域の農村と環境破壊に対する補償内容を定める契約を交わし、冬のみに実施することとなった。 だが、木を伐採する際は計画的に行っているので、辺りの山すべてを禿山にするわけではない。」となっている。

まあ、そこら中にあるといってよいのだろう。今回はまず、地図上に「金屋子神社」との記載のある越畑を訪ねた。布施神社奥津温泉から東に笠菅峠を越えるとそこが越畑なのだがマピオン地図によれば「金屋子神社」のほかに「三鏡神社」「吉備津宝築神社」がみえる。集落を北に過ぎると家もまばらになり越畑キャンプ場への分かれ道も香々美川に沿って直進して約1~2km右側の林の中に写真の祠がひっそりとある。必ず見過ごすので気をつけて!ここで気になるのは「香々美川(かがみ)」、「三鏡」、「吉備津」そしてなんといっても「越畑」そのものである。時代が同じだとは言えないが、鉄の産地であったとともに鏡の産地だった可能性が高い。そして「古志の秦」なのだ。

さて、峠越えで奥津に戻ると奥津歴史資料館に立ち寄る。書籍棚に郷土史でたたらに係るものがあるのでこれで少し勉強する。さてつぎは富西谷である。このあたりは旧「富村」なのだが昔はずいぶん直接的な名前だなあ「豊かな村だから富村かあ?」と思ったものである。しかし今では出雲大社社家富家との関係だと考えている。此の地には気になる地名が残っている。「鍛冶屋、札場、白賀、そして布施神社」などである。布施神社は古くは三塚(みつか)の壇(だん)の山頂にあり、永享年間(1429?1440年)に現在地に移され、富ノ荘(現在の富村、奥津町、上斎原村、鏡野町の一部)の総鎮守であったと伝えられている。字白賀そこには三塚壇弥生墳丘墓があり特殊器台も発見されており吉備楯築と出雲西谷の中間結節点だと考えられる。布施臣は安倍臣からの分流で新羅系の鉄関連氏族と考えてよいだろう。そして白賀&白賀川も新羅(しらぎ)の転訛とするのが常識的だ。

ここから7kmほど北西に「鍛冶屋谷たたら遺跡」(のとろ原;のとろ温泉の奥)があり明治まで操業していたというがこの運営者が徳山家(集蔵)である。もちろんここにも「金屋子神社」がある。この地から北に峠をこえると蒜山別所そして新庄に抜ける手前が上徳山で徳山神社があり、徳山家はここの人である。そしてそこにも「白賀&白賀川」が存在する。

この蒜山の白賀から西南へ峠を越えるとそこは野土路で車が何台もならぶ名水で有名なところ、そこの少し南にある谷が「金ケ谷」でその渓流沿いにあきらかな「たたら山内跡」が存在する。そして新庄村に入ってゆく訳である。どうでしょう鉄に関連した地名がいくらでも続く、そして「シラキ」に関係するものがどんどんでてくる。さて最後になるが「新庄」は「しらき→新城→新庄」の転訛だとしたらどうでしょう?とまあ、そこら中にあるといってよい訳である。

カテゴリー: 邪馬台国 パーマリンク