笹尾山 &外国山は迷いがち!

笹尾山 & 外国山は迷いがち! 07-Mar.20

笹尾山 片上湾

備前片上の笹尾山(268m)には2度目のチャレンジである。前回は登り口を見過ごしてしまい片上から久々井までヤブコギしただけだったのだが。今日は地図(岡山の山百選)を片手に久々井から入ることにした。

しばらくヤブコギすると開けた切り通しのような場所にでた、そこにはちゃんと登り口とおぼしき道が山に向かった存在した。これを見落としたとはやはりすこしボケてるのかと疑いたくもなる。Lunch
20分ほどで片上湾から日生方面を見渡せる岩場に出、すばらしい景色を堪能する。さらに一山超えると舗装道路にでた。しばらくクネクネいくと電波設備らしきアンテナ群がありそこが頂点のようだ。今朝作ったLunchをいただき一服した後同じルートを下山した。

さて午後は和気の外国山(258m)に向かう。熊山?和気の本交差点(変わった名前!)を左折、700mほどで左に火の見やぐらのある道を左折して集落にはいる、少し入ってまた左折するのだが、ここをみな間違うらしい。外国山より吉井川我々はそのつもりでついたのが遊具のある広場であったが、耕耘機にのった地元のおやじさんが「みんな間違うけどここじゃないんじゃ」と教えてくれて大助かりであった。(感謝)

無事広場に駐車して、登山口からしばらく階段のつづく急登を登っていった。1日2山は2度目だがなかなか足やらなにやらにくる?という感じだ。しばらく耐えて登ること30分ほどで鉄塔に着く、ここから吉井川、熊山などが見渡せる。
このあと2?3山アップダウンを繰り返し頂上へ到達した。そしてここにも鉄塔であるが南部の山々はマアしかたないね。

外国山中腹より吉井川を望む

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化気神社 本宮山 とは何の本宮なのでしょうか?

化気神社 本宮山って何の本宮? 07-Mar.13

化気神社 本宮山林道

今日は、吉備中央町の本宮山に向かった。この町名も平成合併でできた名前だが広すぎてどこのことかわからんでしょ。昔の名前がなつかしい( by akira!)  奥吉備街道と名付けられた大型農道(建部?有漢)の中間点あたりに吉田牧場がある、そこを1kmばかり有漢方面に過ぎるとチロリン村などの施設の看板がありそこを右折、500mで林道入口である。ここに駐車して山の北側を巻くように林道を進むと40分ほどで頂上直下の登頂口に到着した。

本宮山頂上広場

ここから5分ほどで山頂に到着すると龍王宮、海神社、化気(けぎ)神社の祠が祀られている。本宮山という名からして当然な景色ともいえる、そして「化気神社社有地」とあった。これで化気神社本宮であるのはよくわかったが、疑問が二つ湧いてきた。まず第1に「化気神社」という名前が気にかかる、どっかで聞いたようでないような、そうもちろん敦賀の越前国一宮(越国の中心地)の「気比神宮」である。はたしてその関係は?ただ音が似てるだけなのか。第2の疑問は「海神社」である。この加茂川付近にはこのような一文字神社が「森神社」「天神社」「風神社」「鴨神社」と計5社ある。それぞれ国内各所にあるが、数の多い神社ではない、それが一地区に集まっているのがいかにも不思議である。とても偶然とも思えない。岡山神社庁HP「化気神社」

このあと「僧坊灯明台痕跡」らしきところでLunchを頂き、一服ののち下山を開始した。林道出合で道を間違えて吉田牧場西北の林道入口にでてしまったので20分ほどアスファルトを歩くはめとなってしまった。この後、「化気神社」を訪れ、さらに奥吉備街道で大変なものを見つけてしまうのだが、詳しくは次ログをご期待ください。

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貝殻山は 高島 の宮なのか?

高島 宮は貝殻山頂上の直下にあるのです! 07-Mar.6

貝殻山登山口

我が家から産業道路(なぜ「産業道路」なの?)を南下し児島湾大橋を渡り児島湾に回り込む、しばらく行くと高島宮があり、このあたりが宮浦である。ここから500mの沖に見える島があの神武由来の高島であるが、あっけないほど小さい。さらに300mほど行くと貝殻山登山口の看板があり右折して整備された広場で車を停める。息子たちが小学生のころ遠足で来ていた場所でこの辺りにバスできて登山したのか、それとも頂上まで車でいったかは確認してみよう。

天目山より 高島 を望む

貝殻山を東から巻くように登っていく、池をすぎると少し急坂が続き50分ほどで車道に飛び出した。そこから右へ200mで駐車場にそしてその上が貝殻山頂上広場だ。ここに弥生遺跡や貝塚、のろし跡などが発見されている『高地性集落』の代表例だ。(高地性集落「貝殻山」)

ここからは瀬戸内海は当然として北に本宮高倉山、西北西に楯築遺跡が見通せる最高の前線要塞都市だったに違いない。しかも楯築遺跡の項(楯築遺跡と邪馬台国)で述べた通り冬至の朝日がこの貝殻山から登ったことはまちがいがなく、宗教的にも重要な地であっただろう。写真は500m西にある天目山から北を望む景色で高島と高倉山が一直線に見通せる。

神武東征由来の高島の宮を笠岡神島沖の高島と比定する意見もあるが、この貝殻山を要塞とした児島こそが高島ではなかったのではないかと考える。

下りは天目山からキャンプ場の脇をぬけて細い道を下りてゆく。40分ほどで駐車場に到着、快適な山行であった。

貝殻山頂上からの瀬戸内海眺望

貝殻山頂上からの瀬戸内海


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有漢 大平山は早朝がよいそうだ

大平山は快晴の早朝、雲海が湧くらしい! 07-Feb.27
大平山頂上

大平山は有漢町と吉備中央町(旧賀陽町)との境にある標高697mの山である。円城あたりから大型農道(建部ー有漢)にはいり有漢町に向かう。有漢町に入ってしばらくで左に大平山入口を発見、でも舗装道路なので登山道を探すがない、しかたなく車で登ってみると10分位で頂上についてしまった。山頂付近には、「大平山いこいの森」「ハングライダーの離陸施設」「キャンプ場」などが整備されている。われわれは、頂上を起点にしてこの三施設付近を散策することにした。

大平山いこいの森展望台

15分ほど山を下りキャンプ場周辺に整備された遊歩道を巡り、再び頂上へむかい「大平山いこいの森」の展望台に到着、天気も快晴ですばらしい景色を堪能する。一服ののち約1時間半の行程で頂上展望台に駐車した車まで帰ってくると、すこし年配のご夫婦が車でLunchをしていた。われわれは有漢町におりて「だってん」で昼食としよう。店に入ると伊達さんは不在であった。「どうしたの?」と奥さんに聞くと、高梁駅前に新しく店を出したとのこと、楽しみがひとつ増えた感じだ!

「大平山いこいの森」の展望台

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備前片上 観音寺山

未整備の登山道だとまだしんどい! 07-Feb.20
観音寺山中腹

午後の登山、標高385mの観音寺山を東備ゴルフセンター(備前市大東交差点より北の集落に入り地元道を西に進みゴルフネットをたよりに探す)より登山開始。道がはっきりとしないのでテープをたよりに進むが、管理の方に感謝である。沢伝いにしばらく行き詰めると急登となる。足にも胸にもきながらやっとのこらで中腹の大岩に到着、しばし休憩とした。急登と緩斜面をいくつか繰り返し、頂上らしき場所に到着、残念ながらこのコースは眺望に乏しいようだ。(さらに残念なことに後で調べると三角点はほんの少し先であった。なんたること!)

観音寺山山頂

このまま、東観音寺山から一本松に向かえば開けるようだが時間も3時を過ぎているので元きた道にもどることにした。ここからが大変ですぐに迷った。テープを見失うたびに登りもどるを繰り返し、やっとのことでルートにもどった、低い山も侮っちゃいかんね!4時過ぎにゴルフ練習場に到着した

今日はいそがしい一日で、笹尾山を目指し薮こぎでルート見つからず断念、日生にて『かきおこ昼食』、腹ごなしに『ゴルフ打ち放し』、そして観音寺山登山だったのだが。このあと締めは佐伯にある『つるの温泉』で一日の疲れを取ろうという計画だ、がこの計画自体が疲れるような気がする私です。

観音寺山山頂らしきところと思ったが?

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冬季限定!日生のかきおこ!

日生のかきおこ 07?Feb.20
お好み焼きほり

日生は岡山県の東部にある港町で”ひなせ”と読む。そして、「かきおこ」とは牡蠣入りお好み焼きのことである。日生の真ん中を走る県道の一本北側の細道に面した「かきおこの店ーほり」の駐車場に停める、きょうもお客さんで満杯だが地元の人と我々のような遠方組が半々である。「かきおこ」は漁師さんが持ち込みでお好みの具にしたのが始まりで、地元グループがHPなどで情報発信したのがブレークのきっかけ、その調査隊の第一訪問先となったのがこの「ほり」ということである。かきおこ他いまでは「かきおこツアー」もあるらしいし、「日生のお好み焼きやさん」ならたいがい食べられるが、我々はここにしか来たことがない。

待つ事20分、右奥のカウンターに陣取り「かきおこ、たっぷり/かき鉄板/焼きそば(豚)」を注文する。このふくらみに『かき』がたっぷり乗っているのだが、これがお好み焼きにあうのです。二人でお腹いっぱいになる、しかもこのあと山に登るので十分である。お値段は¥800¥500¥450で大満足の日生「ほり」でした。

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足摺岬は春うらら

病み上がりで足摺岬は春うらら 07-Feb 10
内子のこて絵

今年の職場旅行は’しまなみ海道’経由で2年ぶりの足摺岬への旅である。じつは、正月から風邪をひいたうえに体調が崩れたせいかひさしぶりに腎臓結石がでて寝込んだ。痛みは2~3日でとれ石も飛び出したが風邪はなおらない、3週間熱がさがらない、4週目また結石がでた。ついに6kg痩せてしまった。2月にはいりやっと外に出たが思うように歩けない、気分転換に登った操山も息がきれ、足がすすまず倍ほど時間がかかる。こんな生まれて初めての経験のあとの旅行であった。

今回は愛媛廻りと決め朝7時すぎに岡山を出発、まず大三島の大山祇神社(伊予一宮)に立ち寄り旅の安全を祈った後、一路『内子』へと向かった。松山をすぎてしばらくで内子の八日市・護国(町並み保存地区)に到着した、時刻は11時40分で予定より押しぎみである。朝食内子町は、江戸後期から明治時代にかけて、和紙と木蝋で栄えた町で壁など丁寧に復元した町並みが約600mほど続く。写真は豪邸にあしらわれた鶴のこて絵という装飾。食事処「下芳我邸」で蕎麦を頂き、お土産に和ろうそくなどを買って2時半、本来の目的地『足摺岬』と出発。

宇和島からはずっと地道を走り宿毛、中村、土佐清水を経由して6時半にやっと本日のお宿『ペンションさらい』に到着、あたりはすっかり暗くなってしまった。足摺灯台部屋で一服してすぐ夕食がはじまった。「さらい」のご主人が近くの窪津漁港でその日に買い付けたさかな三昧の食卓である。凝った料理こそないが、”これでもか!”と新鮮さで押してくる感じで、もちろんカツオのたたきは最高である。また部屋をはじめ館全体が清潔に保たれて心地よく、なかでもお風呂が広くて気持ちいい!写真は朝食、宿で食べる朝食はなぜかおいしいね。快晴の朝9時に犬のラブに見送られ出発した。

まずは、足摺灯台へ!車で5分、駐車場はもう満杯だった。椿のトンネルを抜けると灯台に到着、前日のお祈りが効いたにちがいない晴天でまあるい水平線が醍醐味だ、瀬戸内育ちには感激の景色。灯台そのものは白くシンプルなものだが、そこからの圧倒的眺めは土佐人が海外に目をむけ羽ばたこうとするのも宜成るかなである。そして足摺の代表的人物といえば『ジョン万次郎』だ。14歳で漂流、アメリカの捕鯨船に救われ(当時、アメリカは大捕鯨国しかも油が目的)のちに日本の国際化に大きく貢献することになる。その資料館であるジョン万ハウスは土佐清水の海の駅に移動していた。(参照 HP土佐清水市ジョン万次郎の生涯)

唐人駄馬

また、あまり知られてはいないがここ足摺には「唐人駄馬」とよばれる古代巨石群遺跡のあと?がある。縄文のころ黒潮に乗って辿り着いた異民族が築いた宗教的施設だといわれているが、なんと1977年に県によってつぶされ公園化されたのだ!むかしの写真をみると広大な平場に巨石がならぶ異様な景色で、間違いなく日本最大級の列石群だろう。いまは周囲の山に巨石(ストーンサークル)が残るだけだ、残念にもほどがある。

唐人駄場から海を望む

私の知る土建屋さんも「工事中にマンモスの骨が出てきてあわてて埋めた」と過去の貴重で涙のでるようなエピソードを語ってくれたが、文化財行政についてもっとみんなで考えたいと思う。(参照 HP足摺巨石群 唐人駄場と周辺の遺跡)

さてその他、金剛福寺(四国遍路の重要ポイント)や白山洞門などを観光の後、一路高知市へ向かった。県庁のそばにある「ひろめ市場」でなぜかカレーを食べて今回旅行のイベントは終了した。(参照 HPひろめ市場)

病み上がりを考えて早め早めの行動だったため「夕焼け空のなかをゆく瀬戸大橋」という雄大な景色というおまけも楽しみ無事岡山到着、まだ午後の7時すぎであった。四万十ののりの佃煮でお茶漬けをいただいた、おつかれさまでした!。

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初詣!石上布都魂神社 すべてはここから始まった

平成19年 初詣!石上布都魂神社(いそのかみふつみたま) 07-Jun.1
石上布都御魂神社拝殿

あけましておめでとうございます。ここ石上布都御魂神社への初詣は3度目となる。3年前 Web上でみつけた岡山県吉井町のこの謎の神社を訪ねたのが僕の「神社巡り岡山の古代史探訪」のはじまりだった。

藤本さんのHP「吉備の国探訪」石上布都御魂神社の項の冒頭を紹介しよう。『日本書紀は、写本によって記述が変わるが素戔鳴尊が、大蛇を退治した記述のなかで、退治した大蛇の中から草薙の剣が出てくるが、その退治した剣は「吉備の神部の許にあり」とか「鳥上の山これなり」「石上にあり」とか表現される 。、、、、
物部宮司
(参照 HP吉備の国探訪)

つまり、日本書紀によれば素戔鳴尊が、大蛇を退治した剣「十握劒」は元々ここのご神体で、出雲神話だと思っていたこの大蛇退治の舞台もこの吉備赤坂であり、天理の石上神宮もここが元社であったという話な訳である。ここを皮切りにいろいろ調べてゆくに、大和と吉備の関係はより深い関係というより大元が吉備勢力であり「邪馬台国」も吉備に存在したのではと今では思っているくらいだ。

左に紹介するのは石上布都御魂神社物部宮司である。素戔鳴尊を祀るとしたらこの上ないお名前であるが、実際には池田藩に再興されたおりに「物部」の姓を授かったという経緯らしい。このかたはお話上手で昔話をいろいろと教えていただける。奥宮中腹最近聞いたお話では『昔、このしたの道を馬喰が牛を沢山、美作のほうから岡山に運んでいた』ということだ。つまり昔から岡山は牛の産地(いまでも!)でしかも陸路を使っていたということだが、よく考えてみるとこのサイズの動物は川を渡れず船も無理だったという訳だ。

ひととおりご挨拶をすませ奥宮に登る、ちょうど中間あたりがこのように眺望がひらける。ちょうど前ログに書いたように写真に見える矢印(南方)の先にははっきりと高倉山の頂上がみえる。そしてその先には石高神社や曹源寺があるという訳だ。

石上布都御魂奥宮

奥宮まで約500m、巨大磐座をまえに作法どおりのお祈りを捧げる。ここを皮切りに中四国の一宮を総て踏破したわけだが、結論としてここが一番小さい一宮神社である。ぼくはそこにとても興味を惹かれる。一宮とは令制国の第一の宮を指すのだが備前には吉備津彦神社がすでにあり、またそこと勢力を競っていたのであればここはもっと大きくてよいはずなのだが?

もう一つ、神社の元祖は三輪山麓の大神神社ということになっている、それは本殿拝殿などをつくる形式になってという意味なのだが、本来の古代神道は社もなくご神体そのものを拝んでいたはずだ。つまりここ布都御魂はその大神神社以前の古代神道祭祀場で道教や北辰信仰の影響を強く受けた信仰の聖地であったと考えられる。また、赤坂という地名も鉄鋼(てつはがね)の集散地で先ほどの陸路と吉井川の水路とは両睨みできる要衝の地だったにちがいない。

(参照HP玄松子の記憶 石上布都御魂神社)

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本宮高倉山の本宮の本意とは?

本宮高倉山 06-Des.23
本宮高倉山登山口付近

高倉山は岡山市牟佐から山陽町にかけてそびえる標高458mの山である。今日は牟佐側の登山口から歩き始めた。けさ「楯築遺跡の夜明け」を拝んだばかりのその日の登山であるが、じつはこの「高倉山」は「楯築遺跡」と変わらぬ貴重な神奈備山(「かんなびやま」古くは「かむなびやま」神の鎮座する山の意)だと思っている。まず、その麓には吉備第3位の大古墳「両宮山古墳」が鎮座している。がしかし有力な古墳があるから重要な地になったのではなく、その逆なのだと考えるのが自然で重要かつ神聖な地であるからこそ当時の大王がその傍らに葬られたはずである。

この山が大変重要な地であると考える根拠とは、つぎの偶然の発見からだ。高倉神社その発見とは僕が神社巡りを始めるきっかけとなった石上布都御魂神社その山頂にある奥宮とこの高倉山山頂、我が家の氏神様でもある円山山頂(石高神社奥宮)の三カ所の関係にある。そこにはそれぞれ立派な磐座が在り、なんとそれが南北の一直線上に存在するということなのだ。さらに、その社名が「上布都御魂」「倉」「石高」という符号の一致もとても偶然とは思えない。池田藩の菩提寺である曹源寺が円山に建立されたのも磐座信仰によるものであり、その池田藩は石上布都御魂神社を備前一宮として再興し援助をしている。本題でもある本宮という表現だが石高神社由緒にある高倉山(円山)とは本来この山を指し、ゆえに本宮という冠がついているのではないだろうか。

この話のつづきは後段に譲ることとして閑話休題、40分ほどで中腹の高倉神社に到着して境内でLunchを頂いた。境内裏から登山道にぬけ林道五叉路に出会う、近道とおぼしき道をとり昇るが結果としてはさほど近道ではないというのが結論だ。高倉山頂上車道に飛び出ししばらく歩くと高倉山頂上に到着、壊れかけの藤棚の先に磐座がひろがる。恐れ多いことにそこはパラグライダーの離陸エリアとなっているが岡山市内が一望できることからも交通の要衝であることがわかる。この磐座群を背に記念撮影したが、見てお判りのとおり庭石としての清美感を漂よわせ、重森三玲の庭を想い起こさせる。じつは、公園化した時に黒い大きな磐座があったのだが重機で移動したのである。やはり、吉備を代表するSpilitual Point だというのに、残念!現に『黒い、、、』といわれる磐座らしきものも見当たらない。

高倉山頂上 磐座

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冬至の朝、楯築遺跡にたつ

楯築遺跡は古代祭祀の大舞台 06-Dec.23
楯築遺跡

【冬至(とうじ:the winter solstice)】二十四節気の一つで、グレゴリオ暦では大体12月22日頃になる。
冬至は気象学的には、太陽が冬至点に達する時をさします。(太陽の黄経が270°になる)太陽の南中高度が最も低く、ちょうどオリオン座の帯のあたりで赤南23度半になり、太陽はまさに銀河の帯を南側で通過するところであり、銀河中心の方向に光を放つことになります。昼が最も短くなるため、古代においては冬至を1年の始まりとしており、現在でも冬至は暦の基準となっています。

古代においては、冬至の前後になると太陽の力が弱まり、人間の魂も一時的に仮死する。楯築遺跡夜明けすなわち、陰極まれば万物みな衰えて死に、太陽の帰り来る「一陽来復」によって再びよみがえると考えられ、日本ばかりでなく緯度の高い西欧でも古くから「冬至祭」が行われてきました。(Diviner HPより)

12月23日は祝日なので道が混まないと読んだとおり、6時に出発して6時40分には遺跡下の団地に到着した。薬師寺慎一先生によればこの楯築のストーンサークルで冬至の夜明けに吉備の女王による祈りが捧げられた訳である。まだ暗い坂道を登りきると吉備の中山の向こうがうっすらと赤みがさしてきている。幸いにも今日は晴天のようだ。

朝日

だんだん明るくなると意外なことに気が付いた。てっきり吉備の中山から朝日が昇ると思っていたが、かなり南にずれている。サークルの中心にある岩の向きも同じ方角を向いている。そしてその方向には雑木林が鬱蒼とはえており本来のご来光は拝めそうにない。

いよいよ日が昇り始めた、7時を幾分すぎている。少し場所をずらして写真を撮る、そしてその方角には何があるのか、およそ30度は南にずれている、頭のなかで地図を開いてみる「もしや、高島の宮では?」

調べてみると、岡山での冬至の日の出角度は東より28度、さらにそこは児島半島であるので300m程度の山ということは29度ほどにずれる。それを地図にあわせてみるとなんと「貝殻山」あたりであった。(高地性集落「貝殻山」)児島半島「貝殻山」とは貝塚の発見からそう名付けられており弥生集落の遺跡のにおいのプンプンする山だ。これはますますおもしろくなってきた。

楯築遺跡 ストーンサークル

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