備前車塚 古墳は竜の口の山の上

備前車塚 古墳は竜の口の山の上 08-Mar.11

備前車塚古墳

備前車塚古墳は墳長48.3m、後方部長23mの前方後方墳で三角縁神獣鏡が11面出土している重要な古墳である。岡山市内の高島や備前国府の跡(古代での存在は不明)の近くの四御神にある団地の奥にその登山口はある。この山は竜の口山と呼ばれる257Mの山でその中段100M位のところで南面の景色のよかったであろう(いまは木がじゃま)場所に造られている。

竜の口山は「竜の口グリーンシャワー公園」として整備されていて快適な山歩きコースになっており、今日は車塚を経由して山頂を目指すことにした。30?40分で山頂展望台に到着、ここからの景色がよくてすぐ南に操山さらにその向こうの貝殻山がはっきりとみえる。

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下りは四御神コースをおりたが、このコースは一瞬県北の深い山を歩いていると錯覚するような景色がつづく。途中、古墳群もあり寄り道しながらゆっくりと歩くと出発地の車塚公園に1時間で帰着した。

備前車塚古墳の神獣鏡の出土、特殊器台埴輪がなくその山の名が「竜の口」という点から極めて中国色の強い性格のものだなという感想である。

竜の口山四御神コース

考古学研究会 岡山3月例会に潜入!?

考古学研究会 岡山3月例会 08-Mar.8

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開催日:2008年3月8日(土) 14:00?16:00
会場:岡山大学大学院自然科学研究科棟2階大会議室
[発表者・内容]
野島 永(広島大学大学院文学研究化) 「弥生時代初期鉄器の実像をめぐって」
 弥生時代前期から中期に属する初期鉄器資料の再検討を行い、鉄器出現時期とその流通について考察する。

富岡直人・畑山智史(岡山理科大学)
「貝殻成長線分析からみた日本各地の貝塚の特徴」
貝塚出土貝類を顕微鏡観察すると、成長速度や死亡季節が推定される。これにより貝塚の機能や貝採集の実態、環境の変化を追求することが可能となる。この研究の到達点と展望を報告。

というような会が開催されるということで、初めて参加してみた。この会は毎月?開催されているらしい、参加者は発表者の先生と同業の研究者らしい人たちが県外からも、(質問されるとき所属と名前をいわれるのでわかる)あと学生やら岡大研究室の関係者の方々(かな?)、あとなんといっても勉強家のご年配の諸先輩がた総勢で60人ほどが会場を埋めていた。(写真は前の方しか写ってないので少なくみえる!)

「考古学研究会岡山」とは不思議な名前だと思っていたが、それがすごいことがわかった!(一般に固有名詞の「考古学研究会(こうこがくけんきゅうかい)」は、1953年に岡山県飯岡村(現・美咲町)で行われた月の輪古墳発掘運動を原点として、1954年、岡山大学考古学研究室に設立された「考古学研究会」を指す。)のだそうだ。つまり私と同じ年齢を経た日本最大の研究会で一般に公開されているのが特長の権威と歴史を誇る会が岡山にあるということだ。

さて、発表のほうだが野島先生のお話は「鉄器出現時期とその流通」ということで興味深くうかがったが、私の勉強不足と注意不足であろうか「鋳造か鍛造か?」ばかりで流通についてはよくわからなかった。もらった資料を見直すとつまり弥生前期末葉?中期中葉で北九州内陸部に集中しておりその他山口や畿内でも多く発見されるが、岡山にはほとんどないということがわかる。この時期は吉備に水田は発達していたと思うが鉄農機具がないというのは何を意味するのか?そこの仮説を聞きたかったところだが、考古学ではそこまで踏み込まないのだろうか?そこが不思議!

稚媛 (わかひめ)と吉備上道臣田狭の悲劇!

稚媛 と吉備上道臣田狭 両宮山古墳に眠る!? 08-Feb.26

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両宮山古墳は、岡山市内から山陽町に入ったすぐの左側にある、五世紀後半の築造とされる前方後円墳で雄略天皇の期に符合する。備前最大の全長百九十四メートルあり、県内では岡山市・造山古墳(五世紀前半、三百六十メートル)、総社市・作山古墳(五世紀中ごろ、二百八十六メートル)に次ぐ大きさで、水をたたえた幅約二十八メートルの周濠がすぐ横を巡っており、さらに二重目の周濠が後円部側の五か所で確認された。そして、吉備上道臣田狭と弟君の両宮が祀られるとされてその名を冠している。

田狭の妻、稚媛の物語はミュージカル「ワカヒメ」( 作・台本・総監督・演出:なかにし礼 作曲・音楽監督:三木稔)で岡山シンフォニーホールのこけらおとし公演として上演された、まさしく劇的な人物である。それにしても、「黒媛(くろひめ)」「兄媛(えひめ)」「お福」&「稚媛」と岡山には伝説的美女の多いことは、ついつい自慢したくなる。ストーリーをミュージカル「ワカヒメ」のパンフレットより紹介しよう。

「吉備の国、上道国造の田狭は、自分の妻である稚媛の自慢をした。田狭の言葉を聞いた雄略天皇は、稚媛の舞を見て、一目ぼれしてしまう。なんとしても稚媛を手に入れたい天皇は、 田狭を任那国司として派遣し、その留守に「従わねば一族皆殺しにする」と稚媛を脅し、稚媛を宮中に召し出し、妃としてしまった。 稚媛には夫、田狭との間に、兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)という二人の息子がおり、天皇との間に星川皇子も生まれた。しかし、夫田狭を慕い、いつまでも天皇に心を許さぬ稚媛に業を煮やし、天皇は任那にいる田狭にあろうことか、実の息子の弟君を討伐軍としてさしむける。」という具合。

そして稚媛のもうひとつのエピソード「星川皇子の乱」とさらに、あわせて「下道臣前津屋謀殺」の話は「雄略天皇と吉備」との特殊な?関係を感じないではいられない。ここで金谷氏(HP古代吉備王国の栄光と衰亡)の興味深い見解を紹介したい。「上道臣田狭事件の真相は」
「下道臣前津屋謀殺」

両宮山古墳には埴輪は発見されておらず、内部は未調査ということで情報が少ないが「二重周濠を持つ」ことから極めて重要な古墳であるにちがいない。日本書記の雄略天皇の項(第14巻)を中国人が担当していることや、田狭が新羅と組んで雄略と対峙することから、親中派と親倭吉備派との対決構図で、稚媛は自らの身を投じて、倭の主導権を奪い返そうとしたのだと思う。

ちなみにオリンピック陸上女子において日本人第1号のメダリストは「人見絹江」、第2号は「有森裕子」で二人とも岡山人なのである。つまり結論としていえるのは、稚媛の昔から「岡山の女性はすごい!」ということにつきる。

貝殻山遺跡( 高地性集落 )再び

貝殻山遺跡 高地性集落 っていったい何だろう 08-Feb.18

貝殻山頂上

高地性集落とは弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設だ。貝殻山は岡山市内から南に位置する児島半島にあり手頃な山歩きコースなので時々訪れる。登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区に整備されている、車を止めて金上池コース(東周り)を登り約50分で頂上の公園に着いた。今日はひさしぶりの暖かい一日で頂上芝生広場でのんびりと寝転んですごした。

「ぼくのなまえはヤン坊♪♪」

貝殻山遺跡は弥生時代中期に出現し6棟の竪穴式住居あとと貝塚、分銅形土製品などが発見されている。鴫沢遊児さんのHPの高地性集落を参考にしてもらうとわかるように弥生時代3期4期5期ではそれができる場所が変化している。よく考えてみると見張り施設であれば対立したどの部族でも必要不可欠なものだろうから、どんどん変化することに不思議はない。特に高地性集落には環濠のあるものとないものがあり、これを時代による防御機能の進化とみることもできるし、対立する陣営の特徴をあらわすものかもしれない。

分銅形土製品というのはこの時代に吉備を中心に発見されるおまじない道具のようなものでそれこそ分銅の形をしている。さらに前ログにも書いたとおり、この地点は楯築遺跡からみて冬至の日の出の昇る方角であり、しかも見通せる。であるとするならば(by石破しげる)この施設はもともとこの吉備地域に勢力をもつ陣営のものつまり倭国(邪馬台国)の施設に違いない。瀬戸内海は180度開け南には四国が見える、北は我が家のほん近所の操山(古墳だらけ)にある見張り施設?の旗振台などすぐそこにみえ、手旗での通信も可能かとおもえるほど近い。実際に江戸時代末から明治時代にかけて、大阪・堂島の米市場での相場が、毎日旗を振って暗号でリレー形式に伝えられたのだそうだ。しらべてみないとわからないがそのずっと昔から通信設備として利用されていたのだと思う。

貝殻山から岡山市内を望む

さて、そろそろ下山である、今日は宮浦にくだる五石コースをとった。上の写真は、五石のひとつの「隠れ石」からみる岡山市全景で、真ん中に見える小さな島がかの高島である。

日本書紀 は中国製!?

日本書記 は中国製?で三角縁神獣鏡は日本製? 08-Feb.18

おもしろい邪馬台国サイトを見つけた。ひとつは安本美典氏を主宰とする「邪馬台国の会」のHPでとてもしっかりとした内容と体裁を持つページであり、「九州説」を唱えている。いまひとつは「歴史言語学と日本語の起源」でどちらも京都産業大学の森博達教授(日中語文交渉史の研究)の説を紹介したもので、語学からのアプローチだ。

まずは三角縁神獣鏡(景初三年鏡)の銘文についての考察だが、このページを読むとわかるが、卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、詩文隆盛の時代でこの韻律のでたらめさは中国のオリジナルとは考えられないということだ。 ではどう考えたらよいのか、出土したのがたとえば倭国(邪馬台国)系の古墳とすればこんな「なんちゃって銅鏡」のようなものにどんな意味があるというのだろうか。それでは中国系古墳とすればこれもすっきりしない。なんだか悩みが増えた感じである。

つぎの 日本書記 の中国人 執筆説もすごく説得力のあるはなしで書記十四巻以降(くわしくは参照ページをみてね)は文法ミスがない、ゆえに中国人であるというところがおおいに惹かれる。日本書記それはその十四巻が雄略天皇の項だからだ。それゆえ雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。そもそも日本の歴史を記すのになぜ中国人なのか、なぜ前半と後半で執筆者がちがうのか?謎は広大な迷路のようにまた深くなっていた。

「九州説」も「畿内説」も互いを攻撃するときの理由にうなずけるものが多くどちらでもないというのが正直な印象だ。まず畿内には弥生後期の遺跡が乏しいといわれるし、魏志倭人伝にある植生が当時の奈良盆地では無理があるという。ひるがえって「九州説」では邪馬台国は「一大率」という役所を伊都国に設置して諸国を監視したとあるが、もし邪馬台国が北部九州にあるならば、こんな近くの他国に出先機関を置くことなどせずに、自ら監視するはずだ。それに魏志倭人伝の里程で九州内に収まるにはいかにも無理がある。どちらにしても九州or畿内以外にまったく頭がいかないということ自体が柔軟性を欠いているように思う。

古墳と弥生墳丘墓をつなぐ 宮山 古墳(墳丘墓)

宮山墳墓群

古墳と弥生墳丘墓をつなぐ 宮山 古墳(墳丘墓) 08-Feb.12

総社市三輪の 宮山 古墳(墳丘墓)はきわめてデリケートな存在である。最古式の前方後円墳といわれる箸墓古墳(奈良桜井)の頭頂部から発見された特殊器台はこの宮山古墳の名を持つ宮山型特殊器台である。器台から器台形埴輪へうつる最後の変節点で「古墳」なのか「弥生墳丘墓」なのか議論のわかれるところらしいが、形は前方部をもついわゆる前方後円墳(これだと古墳?)である。

ここの三輪山という地名も箸墓を見下ろす三輪山とどう関係するのか解明したいところだが希望的仮説にしかならない、しかしあえて加えるならこの三輪の地の高梁川をはさんで向こう側(やや北西)は正木山(古代祭祀遺跡のある)でその麓が「秦」で秦氏の本拠地である。ひるがえって奈良の三輪山の川をはさんだ西側には二上山がありその麓に秦氏の信仰対象である葛木倭文座天羽雷命神社(かつらぎしずりにいますあまはいかづちのみことじんじゃ)があるというのは興味をそそる。ちなみに総社三輪山山頂にある天望台、三笠山の両前方後円墳は正木山の方角を指して造営されている。

権現山 古墳は例外なのか?

権現山 古墳は播磨の御津にある 08-Feb.11

権現山51号古墳

古墳の権威である近藤義郎先生の「発掘50年」によると、最後の持ち駒としてこの「 権現山 古墳」にたどりつくことになる。それまで、都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡が同一古墳内で共存しないことがつづき、それが何を意味するのか?という問題があったのだが、ついにこの古墳でその共存が発見されたのだった。

日生でいま旬の「かきおこ」を本日同伴いただいたH夫妻と堪能した後、一路兵庫県に向かった。相生の白龍城を室津方面にゆくと海沿いの景色のよい道がつづき揖保川の河口の「御津」に到着する。川の西岸をすこし遡ると「八王子権現(皇子神社)」がありここが目的地「権現山」の登山口だ。神社にお参りをすませさっそく裏手の遊歩道にとりつき約20分ほどでこの写真の説明板のある権現山51号古墳があらわれた。この小高い後円部を登るとさらに50m先に再び古墳頂があり、これが権現山頂上で50号古墳らしい。ここからの見晴らしがすばらしく眼下に瀬戸内海を見ることができ、古代には麓まで海岸が迫っていたのだと容易に想像させる。

「八王子権現(皇子神社)」の祭神は億計(おけ)王(後の仁賢天皇)弘計(くけ)王(後の顕宗天皇)で播磨ゆかりの23代24代の天皇である。雄略天皇に父(市部押磐皇子)を討たれため、播磨に逃れ後に清寧天皇の期に皇子に復帰を果たす。清寧崩御後、23代顕宗天皇に継がれる間、姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。権現山頂上50号古墳このあたりの話はとんでもなくわかり難いのだが、系図をみると兄弟従兄弟同士が争い何人もが殺されてしまう。そして25代武烈につづき謎だらけの継体天皇へとつながる訳である。

近藤先生は都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共存が例外なのかそうでないかという問題というか宿題を残されたのだが、私は例外的であるのではと推察する。都月型円筒埴輪(吉備特殊器台型埴輪)に象徴される吉備系と三角縁神獣鏡の中国系との争いと妥協の歴史だと考えれば、この51号古墳がその妥協の産物なのではないだろうかと思う。

権現山頂上50号古墳

シルクロード/クチャの歌舞と蒜山 大宮踊り

シルクロード/クチャの歌舞と蒜山 大宮踊り 08-Jan.26

大宮踊り nhk本

クチャとは天山山脈の南路(シルクロード)のオアシス都市の名である。このクチャの踊りと蒜山 大宮踊り が似ているというのが田村誠一氏の文章にあるという、田村説では北方遊牧民族の「月氏」が月読の一族の出自であるというものでとても興味をそそられ調べてみることにした。

県立図書館のカードをこの機会につくり「DVD:シルクロード 天山南路/音楽の旅」を借りて、みてみた。石坂浩二ナレーションによる超有名番組で、あいにく当時は興味がなくまったく見ていない奴だが、NHKスタッフと中国スタッフのチームによる「西遊記」の再現のようなものである。天山山脈を鉄道で越えタクラマカン砂漠を車で進むと、今回(僕の)の目的地「クチャ」に到着する。9世紀以降ウイグル族の領域となるが、古代においては亀茲(キジ)国といい、クチャを中心に栄えたオアシス国家で、匈奴と漢民族とのあいだで翻弄され続けてきた歴史を持つ。

このNHKの番組主旨は「このクチャで栄えた音楽文化がシルクロードを通って日本の雅楽になったのでは!」という筋書きである。たしかにここで紹介される仏教遺跡にみえる絵から、唐を通じて日本にというのは実に明快であるが、でもちょっと気になることもあった。それはウイグル族に楽器がはっきりとは引き継がれてないことなのだが、そんなこと説明しようにも僕には無理なのでやめとこう。「玄奘三蔵」に紹介されたこの国民は唄踊りに優れていたとされ、現在のウイグル族の人々がそれを復興伝承すべく歌舞団が構成されていたり、宴会や祭りなどで皆が歌い踊る風習が残っている。その中で踊りや演奏がいくつか紹介されるが、どうも「 大宮踊り 」のイメージにはつながらない。それより手のうごきが琉球沖縄舞踊の感じに近い。両手を頭上にかざして左右に伸ばし縮めるあの仕草なのだが、それは盆踊りの基本的な仕草にも通じるのだろうけど、田村氏はどう感じたのだろうか?しかし氏は蒜山在住であったのだから盆の時期にたっぷりと味わっているはずで、僕のようにWebで少々つまんで見たのとでは比べようもない。今年の夏は是非、実物を鑑賞してみようと思う。

ただ、そんな中、クチャの音楽の名人という老姉弟が紹介された。かれらは、200年くらい前の唄というのをを演奏してみせたが、その弟の担当する侘びた「太鼓」の音色は「蒜山 大宮踊り 」のそれと通ずるものがあった。専門家でない身にとってこれがどれほど似ているのか、または珍しくもないのか判らぬがその独特な響きはえも言われぬ共通項を感じる。あわせて唄のテーマも「月」ということで古代の「月氏」をイメージさせるのに充分であった。

日本一の 造山古墳 はだれのお墓?

日本一の 造山古墳 はだれのお墓? 08-Jan.15

岡山市新庄下にある 造山古墳 は全長350m、高さ31m、全国では仁徳、応神、履中天皇陵につぐ4番目の大きさであるがその四っつのなかで築造年が最も早いと考えられている。つまり当時、日本最大の古墳であったということになる。

造山古墳

この四大古墳のうち 造山古墳 以外がみな天皇陵とされて陵墓参考地なのになぜ造山は自由に入れてしかも未調査なのだろうか?これを考えだすと夜も眠れない(かなり古い!)。つまりは宮内庁の見解として天皇家とは関係がないといっている訳だが、ではいったい誰のお墓なのだろうか

岡山市の文化財課参与で「古代吉備国を語る会」の出宮氏の「 造山古墳 倭王陵論」に興味深い一文を見つけた。中国洛陽市の文物工作隊の李さんの指摘によると「風水の観点から造山は王陵の占地観にある」というのだ。つまり、背後に日差山を背負い前面の足守川に挟まれた、風水上「王陵」に最適の地を選んでいる。加えて、地図で確認してもらえればよいが、この古墳自体が北東に40度ほど傾いており、その先とその後ろ数kmのところにふたつの「竜王山」という中国好みの名の山があるのだ。

造山古墳の主の正体とは?

この2点から導かれる結論はひとつである。つまり、この墓の主は「中国人」であるということだ。堀り出されている石棺は阿蘇産でいつのころからか露出しておかれていることから「造山のものではないか」といわれているのだが、九州から来た人だと考えれば疑問はない。当時の北部九州は武器、農具、工具などの鉄製の出土品が、他地域に比して圧倒的に多い、つまり北部九州の諸地域が中国王朝の影響のもとに他地域に先行して国を形成した政治的先進地帯であったと言うのだ。いいかえれば、中国の支配下にあったのだ。だからこそ「倭」との間に激しい戦闘が繰り返された跡も数多く見受けられるし、この王が「親中派」あるいは「中国人」そのものと考えても不思議はない。

また石棺が露出して置かれている状態も不思議だ、盗掘目的ならば石棺をほりだす必要はない、ではなぜか?それは「嫌中派」による腹いせ行為なのだ。もちろん以上は極論ともいえる、なにしろ中国に同じスタイルの古墳はないようだし、そもそも「前方後円墳」という「倭」の形式の枠内なのだから。しかし、「親中派倭人」とすればおおくの疑問は解消する、現代日本がそうであるように文化的融合もしくは妥協点の模索というのが古来より我が国のさだめだが、その産物が「前方後円墳」であり、地元民(農民など)のシンパシィを得なければ治世そのものがなりたたなかったはずだ。

このように当時の「倭」における覇権争いが「親中派倭人」と「嫌中派倭人」とのせめぎ合いだと考えれば、「九州親中派勢」に押されるかたちで「吉備邪馬台国」が「畿内」に平行移動していったことも、また後に吉備津彦を派遣して吉備を討伐する逸話も「取り返しにいった」と考えれば、すっきりするというものだ。

前出の出宮氏は造山の主を「倭の五王:讃」ではないか?と述べている。「倭の五王」は各時代の天皇を比定するのが定説であるが「九州王朝説」というものもあり議論の分かれているのも事実だ。でも讃、珍、済、興、武の五人で、これを「倭の五王」ってやっぱり中国趣味な名前だよね。

浦間茶臼山 古墳

浦間茶臼山 古墳は見つけ難い古都の畑のなか 08-jan.8

ツモロ

遅い昼食をとろうと「ツモロ」に向かった。前ログでも紹介したように量がすごいので、名物のハンバーグはさけてポークを注文する。ところが今日はご主人が声をかけてきた、「うちのハンバーグは食べたことありますか?」「ええ、ありますよ、でも大きいから、、、」「牛肉100%のがあるのよ!あんまり大きくないよ」
ときたから、「じゃあ」ということになった。そして、やっぱり大きかった!

やっとのことでやっつけて、2号線(旧)を東の古都へと向かった。そこには、桜井箸墓古墳の1/2サイズで相似形の浦間茶臼山古墳がありバイパス(新2号線)との合流点あたりがその場所である。ところが感をつけて左方向へはいるがどこにそれがあるのかわからない。

まず、福岡神社を発見、ここかと勇んで登るが違った、でもここは巨大な墳丘墓のようにきれいな形をしている。つぎに妙見宮を発見、ここはどうやら違うが山登りがてら15分ほどで登頂に成功、適度な運動になってよかった。その頂上からは長船から邑久(太伯)そして足元の古都が広々と見渡せ2000年前が甦るような錯覚をおぼえた、そして今日の目的地のあたりもつけられた。慎重に下山して浦間茶臼山古墳に向け細い路へと車をすすめた。

住宅地の奥にその入り口(解説板のある)があるのだが、駐車場がないので西側の道路に停めて入っていく。前方部は削られて小公園化されており綺麗な撥形が確認できる。つづいて後円部に登るとそこは広場となっていて、中心部に荒らされた痕と思しき大きな穴があいていた。

浦間茶臼山古墳

浦間茶臼山 古墳

岡山市内東山にある網浜茶臼山古墳も相似形で箸墓の1/3サイズだそうだ。つまり箸墓、浦間、網浜が6:3:2の率で造られており、時期も特殊器台から特殊器台形埴輪への流れからこの順序でつくられたということか?でも箸墓に特殊器台が現れると同時期に吉備に特殊器台形埴輪が発生するし、箸墓の特殊器台もほとんど特殊器台形埴輪にちかいものでどちらが先とは決めづらい。祭祀器具先進国である吉備で最新のプロトタイプとして網浜を築造した可能性はあるだろう。つまり1/3なのではなくて、3倍のものを実績のある安定したOS(特殊器台)で祭祀を執り行ったのではないだろうか。

現在の網浜茶臼山古墳は岡山市東山(操山)の墓地としてかなりの部分がけずられているが、その後円部のてっぺんに上ると南には海が広がっていた(現在は新田開発された田園がひろがる)ことが分る。そしてその先には神武由来の高島、そして高地性集落の遺跡である貝殻山がそびえ、北を望むと本宮高倉山の三角の頂点がはっきりと見える。この東山は古代より重要な祭礼の地として現代に至までその位置に変わりがない、岡山市内の人間にとって「東山」とは特別な意味をもち、お年寄りが以下のように使う「わしもそろそろ東山が近けぇーけぇのお!」と。