田村誠一 氏 指摘の地名めぐりの旅

田村誠一 氏 指摘の地名めぐりの旅

田村誠一 ohkunimura_yamato大国村倭田村氏はその仕事の傍ら独自の斬新な古代史解釈に没頭し多くの著作を残した方である。「古事記は事実であった」という原点から、佐竹先生の「高天原蒜山高原説」を支持し、古事記に著された神話をこの蒜山(吉備ー美作)から伯耆、出雲にかけての歴史に基づいた伝承であるという説を唱えられている。特に地図を丹念に精査されることが大きな特徴で、今回その内の代表的な場所を実際に訪ねてみることにした。

米子道溝口ICを出てナビをたよりに南部町をめざし最初の目的地「倭」に到着した。鳥取県西伯郡南部町倭はかつて大国村倭という地名でここに大国主と須世理毘売命(スセリ姫のみこと)が住まいを構えたと古事記にかかれているとされる場所である。ちょっと複雑だが田村誠一氏の本を研究再現しておられる大橋螢火氏のHPがありますのでこちら(大国村倭に関するページ)を参照頂きたい。

「於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。」迦能山之山本は、迦能山の麓のことです。今は、ここに「山本」ではなく、「倭」という集落があります。字名は、「大国」です。ここに、底津石根。宮柱布刀斯理と書かれた宮殿を建てたことになります。

この倭でさっそく神社を探すと小高い山の中腹に加茂神社が見つかる、この山が宇迦能山ということだ。またすぐ近くに天満(手間)という字があり、同じ古事記の大国主のエピソードに登場する「手間の赤猪の岩」に由来すると思われる赤猪岩神社が存在する。大国主のエピソードにあわせて地名や神社名を後世につけたと考えるのはいかにも素直でない、この土地の伝承を稗田阿礼が取材暗誦したのだ。

田村誠一 日向浦

さて、次に向かったのはゲゲゲの鬼太郎でおなじみの境港である。境港から境水道大橋をわたり美保が関町にはいったすぐの小さな港が「日向浦」ここは真南を向いているのでまさしく日向だ。この地を神武天皇(神倭伊波礼琵古命)が奈良大和に向かう出発の地「日向」であると田村氏は比定している。ひいじいさんの邇邇芸命(ににぎ)が葦原の中つ国に降臨し大山津見神の娘の木花之佐久夜毘売と夫婦となるが、大山津見神の本拠地は瀬戸内海の大三島であり櫛稲田姫(スサノオの奥さん)のおじいさんであることとも合わせると、中つ国が現在の中国地方の語源と考られる。

そして、弥生時代からの古い歴史を今も色濃く残す隠岐の島と本州を結ぶのもこの境港であるが、奇しくも我々の目の前を大きな隠岐の島行きのフェリーが悠々と波を分けて進んでいった。

takachiho

さて、午後も深くなってきたので次に移動だ、せっかくなので「むきばんだ遺跡」を経由して東伯郡北栄町高千穂に向かった。(むきばんだについては別ログであらためて!)さて、この貴重な地名はすでに住所としては存在していないようでなかなかたどり着くのは難しいのだが、そのためではなく絶対に地名を安易に変えたりましてや無くしたりしてはいけないと思う。不思議なことというか有難いことにナビにこのちいさな部落の字名が載っていてなんとかたどり着いた。そこは、遠くに風力発電の風車が何機か見え、ひろびろとした畑が続く農村風景ですでにすこし薄暗く夕闇が迫っていた。

ここが邇邇芸命が高天原より天孫降臨した高千穂である。この地に立つと不思議な感覚に陥る、それは「ここは蒜山高原?」という感じがするのだ。takachiho2なぜなら、そのゆったりとした起伏、その背景にそびえる山々、畑にそだつ作物や芝そしてすこしひんやりとした空気が蒜山そっくりなのだ。つまり高天原天孫族が蒜山から降りてこの地を選んだ様子がありありと思い浮かぶのである。左の写真はこの高千穂より西南を望む大山の姿だが、ご存知のとおり大山は富士山のような円錐形ではなく頂上はぎざぎざでいくつものピークがある。つまり、大山こそが高千穂なのだ。

高千穂より大山を望む

謎の 神宿 を訪れる!

神宿 (かみじゅく)は岡山最高レベルの謎ゾーンだ!

神宿

今日は念願であった、神宿と平福を訪れた。湯郷を過ぎて林野を作東町方面に右折する、5kmほどで平福郵便局がありそのちょい手前の信号交差点のさらに100mほど手前の山側の斜面が平福の陶棺で有名な野寺山古墳のあった場所だ。まさしく「あった場所」としかいいようのない状態で地元の墓地の上に写真のような説明看板があるのみである。

神宿

看板の文面「野寺山古墳」

「明治29年に陶棺が出土した。陶棺は赤色の地膚で切妻造屋根型の蓋をのせた長方形で前面に浮彫りされた絵は牧歌的な雰囲気が伝わる数少ない古墳後期の貴重なものである。この陶棺は現在東京国立博物館に展示されている。」

展示されているかどうかは確認していないが、所蔵されているのでリンクの写真をご覧いただきたい。

この平福からくだんの交差点を北上して姫新線と中国道を越えたすぐのところが神宿だ。まずは紙老虎的世界のこのページを参考に一読していただくとよく解る。このように深く「中山」について考察していることには、おおいに敬意をはらいたい。特に(3)のページにこの神宿についてのリポートがあり、これを体感したいがための今回の訪問である。この集落には写真のような独特の小さな社殿のような建物を庭先に持つ家が数件あり、すべて東内(藤内)家である。以下、紙老虎的世界内の「作陽誌」の引用をさらに引用させていただく。

鉾殿この東内家の殿舎?その姿と「中山太神宮」の札から,一見「中山神社の元宮」ではないかと思ってしまうのだが, 実は神そのものではなく矛を祭るための特別施設なのである。

藤内家書記如左 是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。 先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者 先年(神の)御宿を申し候につき, その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。 六郡の内‥‥云々‥。  
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。 棟を別にして方二間半ばかり。 藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。

矛殿に関する『作陽誌』の記述
夏秋二度初穂取六家
藤内日向(受領の家) 藤内源太郎 藤内長大夫
藤内勘大夫 (受領の家) 藤内主計 藤内三大夫

一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。 その祭祀最も奥秘の神事とす。 世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。 その法は石基を四方と中央に安して, 各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う。 そ の中央の石今苫南郡小原に遺る。この村の藤内家,五家有りて各矛殿を斎き祭るは, 所謂(いわゆる)五座の鉾にして,そのことに預かる務 めあるゆえ,すなわち己の宅に矛殿を勸請したるなるべし。 ‥云々‥。

作陽誌(上)  昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。 藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。既にして神苫田郡霧山に入る。
作陽誌(下) 山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留 同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記   昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥云々‥。
津山市史(1)中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。この神を斎き祭ったの楢原の東内氏であり,東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。それより以後東内氏は東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り,云々‥‥。

中山大明神文武天皇慶雲三年というのは西暦706年(飛鳥時代末期)なのだが、この年この楢原邑(神宿;神さまが逗留したから)に中山神が現れて、4ヶ月後には津山に移動したという。そしてそこが現在の中山神社というわけだ。その中山神社に伝わる奥義に5本の鉾を祀る儀式がありその鉾を収蔵管理しているのが楢原の東内家というわけである。しかし、そのことを東内家(写真の鉾殿のある家)の大奥様に尋ねたところ「今は何もしておらん」という不可解な返事であった。簡単には信じられないという印象を持った。ちなみに「なかやま」ではなく「ちゅうさん」がオリジナルの発音である。

中山大明神 鉾殿

神戸の巨大古墳 五色塚古墳

五色塚古墳 09 June 16

五色塚古墳 俯瞰図

五色塚古墳 (ごしきづかこふん)は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目にある、兵庫県下最大の前方後円墳。別名「千壺(せんつぼ)古墳」。築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。墳丘は前方部を南西に向けた3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18mで、墳丘は葺石で覆われている。山陽電車と日本国有鉄道(現JR)の路線建設までは前方部が現在より3倍位の長さで、古墳全体の長さが300m以上にも及ぶ大型古墳であった。

「 五色塚古墳 」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。

『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。(Wikipediaより抜粋)

円筒埴輪レプリカ

なかなか判り難い場所にあるのだが、写真でわかるように明石大橋の望める場所なので、地図をたよりに住宅地を通ってたどりついた。年代やその造り大きさから、岡山造山古墳と同系の古墳なのだと思う。広島の三ツ城古墳を含めたこの三つの大古墳は河内の大古墳に通じるものだと強く感じる。この日は天気もよく、少し霞んではいるが淡路島を遠望できたので、ピックニックとしても楽しい経験だった。この後、神戸私立博物館に国宝桜ヶ丘銅鐸(どうたく)・銅戈(どうか)を見にいったのだが、特別展示の入れ替えとやらで入れなくとても残念!(篤姫ゆかりの薩摩切り子展にはあまり興味はないが、常設展示も入れなかった!くぅ??!)ということで、「元町でShoping」&「南京町で四川料理」の規定路線に向かった。

墳頂の埴輪列より明石海峡大橋を望む

青谷上寺地遺跡

青谷上寺地遺跡 (あおや かみじち) 09 May 7

青谷上寺地遺跡 頭蓋骨

青谷上寺地遺跡 とは、鳥取県の鳥取市から9号線を20kmほど西に行った青谷という地区にある。国道から少し内陸にはいった処だが、国道バイパス工事に伴い発掘がおこなわれ、現在は埋め戻されている。そしてその近くに大変質素だが好感の持てる「青谷上寺地遺跡展示館(無料)」がある。

出土品には、多量の土器をはじめ、容器や建築材などの木製品、漁撈(ぎょろう)具や装身具などの骨角製品、工具類などの鉄製品や石器などの多種多様なものがみられる。これは、遺跡が低湿地にあり、厚い土の中で真空パックの状態に置かれていたため、その残り具合が大変良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といわれている。

さらに、青谷上寺地遺跡の弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流している。九州系や北近畿系、吉備地方の土器、石材もこの近辺の石材だけではなく、新潟産のヒスイや瀬戸内産のサヌカイトなどが使われている。また、360点を超える鉄製品や、古代中国の貨泉(かせん)が出土したことによって、海を渡り北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との交流も行われていたことが想像できる。このことは、青谷上寺地遺跡が単なる村ではなく、海上交通の重要拠点だったということだ。

遺跡の東側の溝では、弥生時代後期の約5,300点の人骨が見つかり、中には110点の骨に殺傷痕(写真)が見られた。これは、平和に暮らしていた村が、一気に奇襲攻撃をされて乗っ取られたことを意味している。通常の戦争であれば、順々に墓に埋葬するだろう。つまりこれは異文化の侵略であり、この青谷がいかに重要な拠点であったかという証明でもある

琴 側板

さて、左の写真は「木製の琴の側板」で弥生中期後葉というから、この村の滅亡前の幸せな時期のものである。まず、この模様に注目して頂きたい。なにやら四つ足の動物が描かれている、みなさんにはいったい何に見えるだろうか?角がぐるっと回っている動物といえば、私には「山羊か羊」にしか見えないのだが、この動物をある程度特定している文書はない。なぜ羊でないかといえば「この時代(弥生)の倭国に羊は存在しなかった!」ということなのだろう。しかし、そんな単純なものだろうか?前々項でも触れたようにこの時代の中国にはシルクロードを通じて多くの外国人(ユダヤ)が絹を求めて出入りをしていた。そのユダヤ商人が絹や不老不死の薬を求めて足をのばし倭国まで来ていたことは、そんなに大層な想像力を働かさなくても解る。そう、羊はユダヤ商人にとって神の使いなのだ。

この青谷の地から西へ10kmほど行くと東郷池があり、その水面を望む小高い丘に伯耆一宮の「倭文神社』がある。さらにその先の倉吉の志津にも倭文神社(三宮)が、そして山を越えて南下すると美作久米の倭文神社へと続く。つまり当時の文化最先端地である出雲、吉備の倭絹(倭文)を集荷して青谷から半島へ出港するというそんな絵が浮かんでくる。

吉備の中山 磐座をめざして歩く会?

吉備の中山 吉備津彦神社から元宮磐座へ 08 Oct.25

吉備の中山

岡山マスターズクラブの仲間とS氏を加えた5人で吉備津彦神社の元宮の磐座をたずねることになった。ことの始まりは、O氏が昔「吉備中山の山頂の磐座を訪れて超常体験をした」ということから話が盛り上がり、そこで土曜の朝に集合することになった。

吉備津彦神社を参拝した後、境内の左側に回り込むと登山口があり、そこから「奥宮磐座」を目指し登りはじめる。歩きやすい道が整備され、ちょっとした散策ロードである。竜王山への分岐を右にとり20分ほどで頂上に到着した。その広場は人の手によって草が払われているのだろう、緩やかな斜面にその巨大が磐座が注連縄に守られて悠然と鎮座していた。記念撮影などをすませた後、祝詞をあげみんなで磐座に触れてパワーを戴いた。

真金吹く吉備の中山といわれるように古代より吉備の中心地である。真金吹くとは製鉄が盛んなという意味だが、この中山にはたたら跡のような遺跡は見当たらない。もちろん真金吹くは吉備の枕詞なのだ。でもこの吉備の中山は謎だらけの山である。まずこの竜王山の南の頂には吉備津彦命の陵とされる御陵(中山茶臼山古墳)がある、これは陵墓として管理され墓域には立入禁止となっている。つまり宮内庁が認める天皇家の墓ということである。

吉備津彦神社元宮磐座

つぎに二つの一宮である。この中山には「吉備津神社」と「吉備津彦神社」の二つの一宮(備前、備中)が一つの山の麓に存在する。何故?という感じだ。同じような名前の神社がすぐそばにありそれが国境にあるのはいかにも不自然だと思う。

さらにこの中山の南麓には最古?の前方後円墳「矢藤治山古墳」があるのだ!墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡である。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。

安倍晴明 吉備に現る

安倍晴明 天文台 08 July 8

いわずとしれた、平安時代最高の超能力者?である安倍晴明は陰陽師として天文を担当したが、この鴨方町に彼が天体観測のために使ったといわれる屋敷跡がある。これまで「安倍晴明ゆかりの地」という看板はたびたび見かけてきており、ついに本日たずねることとなった。安倍晴明 屋敷跡

矢掛町と鴨方の境にある竹林寺山の一角には国立天文台岡山天体物理観測所がある、かの有名な竹林寺天文台である、その西どなりの安部山の山中にこの平安の天体観測所跡があるというのはどういうことなのか?鴨方からも矢掛からも細い山道がありすぐそばまで登れる、道の脇に駐車してしばらく歩くとこの安倍晴明屋敷跡こと晴明神社はあった。しかし、関西出身の安倍晴明と吉備がどう関係するのかわからない、がっ 調べてみるとなかなか深い関係にあることがわかってきた。

安倍晴明の師匠 賀茂 保憲(かも の やすのり、917年 – 977年)は、陰陽頭。その父、賀茂忠行は陰陽道の宗家、それも吉備真備の血筋であるというのだ。つまり、この「鬼道」の宗家は吉備の加茂家ということである。まず、この地が「鴨方」であり、造山古墳の在る場所が「加茂」、吉備津神社の元社の可能性のある新庄の「御鴨神社」というぐあいに「吉備と加茂」の関係は深い。さてまた新たに迷路があらわれた感じである。

安倍晴明 天文台Map
https://www.google.co.jp/maps/@34.5853349,133.5830863,16z?hl=ja

西谷墳墓 群 出雲遺跡群へ その二

西谷墳墓 群 08 May

西谷墳墓群

出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に発見され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1?4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四隅突出型墳丘墓

荒神谷遺跡から出雲市に向かって車をすすめると、なかなかわかり難いところにこの遺跡公園はある。出雲市駅の比較的近くなのだが、街中ではなく目印といえば出雲商業のグランドに隣接しているということだろうか。駐車場から公園内を周回する遊歩道が整備されており、さっそくその特徴である台形の墳墓が現れる。これがあの有名な四隅突出型墳丘墓だ。方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。

三号墓といわれるものから、各地との交流をしめす土器が出土しているが、それは北陸の土器と吉備の特殊器台である。時代も楯築と同時代と考えられるが、吉備、出雲、北陸が交流していたという表現にとどまらず、強い繋がりをもった関係になったと考えるがどうだろう。これがこの時代の社会変動の特徴をあらわすものだろうし、後年、箸墓においても同様のことがおきたのだろう。とくに「古事記に語られる出雲の国譲り」のエピソードが奈良大和と出雲の間におきた出来事と考えるとわからなくなるが、吉備倭(邪馬台国)と出雲の間の出来事と考えれば、ぴったり符合するのではないだろうか?

四隅突出部から墳頂に登る

西谷墳墓群(一の谷公園)Map

西谷墳墓群Map

加茂岩倉 荒神谷 出雲遺跡群へ その一

加茂岩倉 遺跡& 荒神谷遺跡 08 May

ひさしぶりの休日、代表的な出雲遺跡群へでかけてみた。まずは島根県雲南市にある加茂岩倉遺跡、大量の銅鐸が道路工事の土中から発見された超有名なところだが、さすがにもう人が行列をつくることはない。この地名に注目すると、「加茂」の「岩倉」でとなりが「神原」で、どれをとっても意味深なものばかりだ。これだけでもここになにかありそうなものである。ここに山を横切って道を造ろうとして削っていたら偶然でてきたというのだから、もっとなにかうまっているにちがいない。

荒神谷遺跡
荒神谷博物館

このあとは、お決まりのコースであるが荒神谷遺跡にむかった。じつは直線距離ではすごく近い両遺跡であるが、車では10kmくらいかかる。以前きたとき工事中だった「荒神谷博物館」が完成していた、はいってみると、本来定休日であったにもかかわらず、消防訓練?で偶然観客役で入れてもらえた。ラッキー!写真は銅矛のレプリカ(もちろん)でその形と重さを体験できる、かなり重い。中の展示や解説が非常にわかり易くできていて、最近のこうゆう施設はすばらしい。

荒神谷遺跡は358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土したことで有名であるが、その数が圧倒的でほぼ一箇所の山あいの傾斜に埋もれていたわけだ。ここも農道の工事にさきがけた調査で偶然発見された土器片をきっかけに調査された結果だそうだ。

荒神谷遺跡&加茂岩倉遺跡Map

加茂岩倉 荒神谷遺跡

桃 と桜

桃と桜 2008-Apr.8

桃源郷

後楽園土手の桜も満開を過ぎ、岡山でつぎといえば桃か北の桜ということになる。今日は天気もよさそうなので桃見と桜見のダブルヘッダーを試みた。

岡山市下芳賀から新岡山CCに登る道沿いにこの桃源郷といってもよい桃畑の山がある。数年前「タイムボカンの悪役三人組」の本物?が岡山を訪れられたのが丁度この時期でご案内すると至極感激されたことを思いだす。

桃 の濃い色の花はそめいよしのの淡い(白い?)ピンクに比べて圧倒的な存在感である。今日も桃畑の農道を何台かの花見見物の人とすれ違ったあと、絶好のポイントに駐車して準備しておいたお弁当をぱくつく、年に一度の楽しみだ。

醍醐 桜

さてつづいてはここから約1時間ちょっと、落合は別所の醍醐桜である。のどかな山里の原風景の中にあって、ただ1本だけ空に向かってそびえ立つ、県下一の巨木といわれ、日本名木百選にも選ばれた見事な桜だ。目通り7.1m、根本周囲9.2m、枝張り東西南北20m、樹高18m、種類はアズマヒガン(ヒガンザクラの一種)で、昭和47年12月岡山県の天然記念物に指定され、伝説によれば、元弘2年(1,332年)後醍醐天皇が隠岐配流の際、この桜を見て賞賛したといわれる。

毎年恒例の訪問だが今年は直前の開花情報をチェックせずにきたせいでまだ「咲き始め」である。地元のひとたちが用意してくれた産物をいくつか購入(だいたいが酒肴)し、うどんを一杯いただいて今年の見物は終了した。

醍醐桜はアズマヒガン

吉備の中山 を歩く

吉備の中山 を歩く 08 Mar.25

hosotanigawa

古今和歌集に「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川のおとのさやけさ」と歌われる岡山市吉備津の中山を訪れた。現在、吉備津神社は本殿を改装中で少しうす暗いなか参拝を済ませると回廊を南に廻り遊歩道の入り口にたった。ここ吉備津神社ではどうも東西南北の感覚がおかしくなってしまう。実際には本殿がほぼ北を向いているが、まずはこのことが大変めずらしい。ほかに北を向いている神社があったら是非紹介してもらいたいと思うくらいだ。ここから足守川をはさんだ西2kmにあの楯築弥生墳丘墓があり方位信仰の跡が残る遺跡であることを考えると、この吉備津神社の出自に特異な歴史があるのだと思う。

chausuyama

この山の最高峰は竜王山(ここも中国系?)で175mという低山であるがそれでも細谷川となずけられた小川がチョロチョロとながれている。遊歩道として整備された道をしばらくいくと残念ながらアスファルトの車道にでる、よい天気のせいかたくさんのウォーキングの人々と出会った。さて左側に中山茶臼山古墳への登り階段があらわれるのでさっそくゆくとよく整備されたその広場に到着する。ここは陵墓参考地に指定されており古墳内への立ち入りが禁止されているがその主は「吉備津彦命」とされている。

つぎは、ここからすぐの場所にある古代吉備文化財センターにたちより、本日の目的地でもある矢藤冶山古墳への道を訊ねることにした。yatojiyamaここには「上東遺跡の護岸跡」「吉備の陶棺」「吉備特殊器台」などの大物を見ることができる。さて教えてもらった道をゆき約20分ほどで矢藤冶山古墳の頂上に到着した。実際にはセンターの事務の女性はこの古墳のことを知らなかったし、リンクページをさがしたがWEB上にこの古墳を説明するページはヒットしない、つまり思いのほか扱いがちいさいのだ。しかし墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡であるに違いないのだ。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。

矢藤冶山古墳と説明板