日本一の 造山古墳 はだれのお墓?

日本一の 造山古墳 はだれのお墓? 08-Jan.15

岡山市新庄下にある 造山古墳 は全長350m、高さ31m、全国では仁徳、応神、履中天皇陵につぐ4番目の大きさであるがその四っつのなかで築造年が最も早いと考えられている。つまり当時、日本最大の古墳であったということになる。

造山古墳

この四大古墳のうち 造山古墳 以外がみな天皇陵とされて陵墓参考地なのになぜ造山は自由に入れてしかも未調査なのだろうか?これを考えだすと夜も眠れない(かなり古い!)。つまりは宮内庁の見解として天皇家とは関係がないといっている訳だが、ではいったい誰のお墓なのだろうか

岡山市の文化財課参与で「古代吉備国を語る会」の出宮氏の「 造山古墳 倭王陵論」に興味深い一文を見つけた。中国洛陽市の文物工作隊の李さんの指摘によると「風水の観点から造山は王陵の占地観にある」というのだ。つまり、背後に日差山を背負い前面の足守川に挟まれた、風水上「王陵」に最適の地を選んでいる。加えて、地図で確認してもらえればよいが、この古墳自体が北東に40度ほど傾いており、その先とその後ろ数kmのところにふたつの「竜王山」という中国好みの名の山があるのだ。

造山古墳の主の正体とは?

この2点から導かれる結論はひとつである。つまり、この墓の主は「中国人」であるということだ。堀り出されている石棺は阿蘇産でいつのころからか露出しておかれていることから「造山のものではないか」といわれているのだが、九州から来た人だと考えれば疑問はない。当時の北部九州は武器、農具、工具などの鉄製の出土品が、他地域に比して圧倒的に多い、つまり北部九州の諸地域が中国王朝の影響のもとに他地域に先行して国を形成した政治的先進地帯であったと言うのだ。いいかえれば、中国の支配下にあったのだ。だからこそ「倭」との間に激しい戦闘が繰り返された跡も数多く見受けられるし、この王が「親中派」あるいは「中国人」そのものと考えても不思議はない。

また石棺が露出して置かれている状態も不思議だ、盗掘目的ならば石棺をほりだす必要はない、ではなぜか?それは「嫌中派」による腹いせ行為なのだ。もちろん以上は極論ともいえる、なにしろ中国に同じスタイルの古墳はないようだし、そもそも「前方後円墳」という「倭」の形式の枠内なのだから。しかし、「親中派倭人」とすればおおくの疑問は解消する、現代日本がそうであるように文化的融合もしくは妥協点の模索というのが古来より我が国のさだめだが、その産物が「前方後円墳」であり、地元民(農民など)のシンパシィを得なければ治世そのものがなりたたなかったはずだ。

このように当時の「倭」における覇権争いが「親中派倭人」と「嫌中派倭人」とのせめぎ合いだと考えれば、「九州親中派勢」に押されるかたちで「吉備邪馬台国」が「畿内」に平行移動していったことも、また後に吉備津彦を派遣して吉備を討伐する逸話も「取り返しにいった」と考えれば、すっきりするというものだ。

前出の出宮氏は造山の主を「倭の五王:讃」ではないか?と述べている。「倭の五王」は各時代の天皇を比定するのが定説であるが「九州王朝説」というものもあり議論の分かれているのも事実だ。でも讃、珍、済、興、武の五人で、これを「倭の五王」ってやっぱり中国趣味な名前だよね。

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