籠神社 これで「このじんじゃ」と読むのです!

籠神社 元伊勢は天の橋立にあるのだ 09 May 5

籠神社

5月連休を利用して念願の籠神社にでかけてきた。由緒によれば「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。」となっている。真名井神社後の伊勢の斎宮にあたる豊鍬入姫命、倭姫命の二代にわたる御巡幸といわれる遷宮が27回おこなわれたという。そのうちのほとんどが美濃伊勢方面なのだが、方向が妙にはずれているのがこの丹波の吉佐宮(よさぐう)(籠神社の元宮の真名井神社)と吉備(岡山市)の伊勢神社(番町)である。

さすがに日本三景だけに、混んでいること混んでいること。予定を1時間OVERで本日の目的地のこの神社に着いた、そして本殿参拝もそこそこに元宮といわれる奥の院「真名井神社」へと向かった。さきほどの喧噪とは別世界の裏道をしばらく行くとその参道を見つけた。鳥居をくぐりしばらくのぼる、若者のグループが先を歩いている、そしてその目的地に到着した。この写真はニの鳥居のそばにある石碑で、一目みてもなんの変哲もないが、これが謎の石碑なのだ。こちらのページ「日ユ同祖論の謎」の一番下の方をご覧いただきたい。これが海部家(神代からの系図が実在し国宝となっている籠神社の宮司家)が最近になって公開した「裏家紋」といわれる「カゴメ紋(六芒星)」である。カゴメ紋は別名「ダビデ王の紋章」といわれ、ユダヤ人のシンボルともいわれ、現在のイスラエル共和国の国旗にも、はっきりと描かれている。今は石碑もこのように左三つ巴の紋に改められているのだが、不思議な話である。偶然の産物であればわざわざ作り替える必要があるだろうか?つまり天皇家が始祖と祀る「天照大神」がユダヤ人(ヘブライ民族)と深い関係にあったのではないだろうか?

このような話は荒唐無稽だと思われるかもしれないが、弥生時代にお隣の中国にはシルクロードを通じて多くのユダヤ人が活躍していたのは疑いようのない事実である。当時の中国(秦や漢など)は我々の想像よりはるかに国際的だったのだ。一説では秦はキリスト教国家であったという説もあるくらいで、日本で秦(はた)といえば絹織物を司る氏族であり、転じて服部氏になったり、京都には秦氏の本拠地ともいわれる太秦(うずまさ)という地名までのこっている。

この丹後地方は言うまでもなく「丹後ちりめん」の産地である、そして神代からの巨大絹生産地だった可能性は極めて高い。またこの日本海に面した港を持つこの地は朝鮮半島を経由して古代中国ともっとも交通の便のよかった地で倭文(和絹)を求めてやってきた多くのユダヤ人商人がその莫大な財力と情報量を武器に倭国(邪馬台国)の中枢に取り入り深い関係を持っただろうことは容易に想像できる。

天橋立

神社由緒によると人皇十代祟神天皇の代に「天照大御神」が大和からここに移動、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢に移動し、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改めたとなっているが不思議ではないか。天皇家の始祖神である「天照大御神」がなぜ大和(奈良)から出て最後には伊勢までいかなければならなかったのだろうか?以前のログにも書いたが、雄略天皇は極めて中国色の強い人物だ。だから籠神社も竹に龍といういかにも中国風な名前になっている。

ロープウェイに乗って展望台のある傘松公園にのぼりお決まりのまた覗きで天の橋立を堪能した。そして丹後郷土資料館を覗くとなんと幸運なことに「海部系図」が展示されており、まじまじと眺めたが中々字が小さくてよく読めなかった。夕暮れもせまってきたので今夜の宿泊地「大江山」に向かった。そういえば「大江山の酒呑童子」もその鬼の姿からすると、ユダヤ人だったのかもしれない。

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