梅原猛 の足跡を追って出雲を行く 熊野大社 など

梅原猛 の足跡を追って 熊野大社 など

蒜山を越えて伯耆そして出雲へ  2010年3月22日

梅原猛 芸術新潮先日の播磨訪問に続いて、本番ともいえる出雲訪問、最初は前回訪れた大国村倭の近くにある赤猪岩神社である。 大国主命を主神とし、その御親素戔嗚尊、さらに、稲田姫命を合祀する。古事記によれば、大穴牟遅神(大国主命)には、八十神といわれる多くの庶兄弟があり、かねてからその才能をねたまれていた。稲羽(いなば)の旅の途次(とじ)、気多(けた)の前(さき)(現在の白兎海岸か)で白兎を救い八上比売に求婚してこれを得たことなどから八十神たちの恨みを買った。

出雲への帰路「伯伎(ははき)の国の手間の山本」(現鳥取県西伯郡南部町)で八十神は、「赤き猪この山に在り、われ共に追い下しなば汝待ち取れ、若し待ち取らずば必ず汝を殺さむ」といい、猪に似た石を焼いて転し落し、大穴牟遅神はその石を抱いて落命した。赤猪岩神社その母刺国若比売(さしくにわかひめ)は泣き泣き天に上って神産巣日之命(かみむすびのみこと)に訴え、キサガイ比売(赤貝)とウムギ比売(蛤)を遣わされた。その貝殻を削った粉を清水で母乳のように練って塗ったところ蘇生して「麗しき壮夫(をとこ)になりて出で遊行きき。」とある。「伯伎国の手間の山本」を現在地(寺内字久清)として赤猪岩神社は祀られている。また日本洋画の巨人青木繁の「大穴牟知命」 (大国主命の受難の物語)という作品はこのエピソードをテーマとしている。

道路沿いに看板があり南折すると畑の間を細い道が山の懐へと入ってゆく、数百メートルで溜池のそばにその神社はあった。比較的こじんまりした社の裏には「宮崎駿の世界」にでてくるような苔むした巨石に大木の根がからまっていた。

熊野大社

つぎに紹介するのは、出雲の謎の大きな鍵を握る「熊野大社」である。熊野大社(くまのたいしゃ)は島根県松江市から十数キロ南の八雲町にある。火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮である。紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたと私は考える。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

この「熊野大社」で毎年、「亀太夫神事」という世にも不思議な儀式が行われる。亀太夫というのは、熊野大社の下級神官なのだが毎年10月15日に、新嘗祭に使用する臼と杵を、出雲大社の宮司が熊野大社に借りにくる。そのとき出雲大社の宮司は、新米で作った餅を数枚持参して熊野大社に渡そうとするのだが、亀太夫という下級神官がその餅に難癖をつける。「餅が小さい、形が悪いなど…」さんざん悪態をつき、挙げ句の果てに「出雲の人たちのおかげで生きていることを忘れるな」とまで言わるのだそうだ。出雲大社の宮司の出雲国造家(北島家、千家家)とは現代でも島根県知事と同格もしくはそれ以上の権威をもっているという。鑚火殿それが下級神官にボロクソに言われるのを、じっと我慢しなければならないのだ、この神事の不思議さにこそ出雲の謎を解く鍵が隠されている。

右の建物がこの鑚火祭、亀太夫神事で出雲国造(こくぞう)が借りにくる神器「燧臼・燧杵」を納めてある鑚火殿だ。実は私が数年前「これは不思議?」と思って古代史に吸い込まれていくきっかけになったのは「出雲風土記」にヤマタノオロチの伝説が載っていないという事実であった。でも、そんなことがあるのだろうか?それとも伝説自体「素戔嗚尊」の色彩が濃い吉備の出来事ではなかったのかとも思ったりした。これもこの亀太夫と関連していると今は思っている。此処の祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。しかし本当はクナトノ大神という出雲族の祖神で「クナト」が「くまの」に転訛したとされている。この謎の神を求めてこのあと出雲(杵築)大社へと向かった。

神器「燧臼・燧杵」を納める鑚火殿

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