古墳と弥生墳丘墓をつなぐ 宮山 古墳(墳丘墓)

宮山墳墓群

古墳と弥生墳丘墓をつなぐ 宮山 古墳(墳丘墓) 08-Feb.12

総社市三輪の 宮山 古墳(墳丘墓)はきわめてデリケートな存在である。最古式の前方後円墳といわれる箸墓古墳(奈良桜井)の頭頂部から発見された特殊器台はこの宮山古墳の名を持つ宮山型特殊器台である。器台から器台形埴輪へうつる最後の変節点で「古墳」なのか「弥生墳丘墓」なのか議論のわかれるところらしいが、形は前方部をもついわゆる前方後円墳(これだと古墳?)である。

ここの三輪山という地名も箸墓を見下ろす三輪山とどう関係するのか解明したいところだが希望的仮説にしかならない、しかしあえて加えるならこの三輪の地の高梁川をはさんで向こう側(やや北西)は正木山(古代祭祀遺跡のある)でその麓が「秦」で秦氏の本拠地である。ひるがえって奈良の三輪山の川をはさんだ西側には二上山がありその麓に秦氏の信仰対象である葛木倭文座天羽雷命神社(かつらぎしずりにいますあまはいかづちのみことじんじゃ)があるというのは興味をそそる。ちなみに総社三輪山山頂にある天望台、三笠山の両前方後円墳は正木山の方角を指して造営されている。

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権現山 古墳は例外なのか?

権現山 古墳は播磨の御津にある 08-Feb.11

権現山51号古墳

古墳の権威である近藤義郎先生の「発掘50年」によると、最後の持ち駒としてこの「 権現山 古墳」にたどりつくことになる。それまで、都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡が同一古墳内で共存しないことがつづき、それが何を意味するのか?という問題があったのだが、ついにこの古墳でその共存が発見されたのだった。

日生でいま旬の「かきおこ」を本日同伴いただいたH夫妻と堪能した後、一路兵庫県に向かった。相生の白龍城を室津方面にゆくと海沿いの景色のよい道がつづき揖保川の河口の「御津」に到着する。川の西岸をすこし遡ると「八王子権現(皇子神社)」がありここが目的地「権現山」の登山口だ。神社にお参りをすませさっそく裏手の遊歩道にとりつき約20分ほどでこの写真の説明板のある権現山51号古墳があらわれた。この小高い後円部を登るとさらに50m先に再び古墳頂があり、これが権現山頂上で50号古墳らしい。ここからの見晴らしがすばらしく眼下に瀬戸内海を見ることができ、古代には麓まで海岸が迫っていたのだと容易に想像させる。

「八王子権現(皇子神社)」の祭神は億計(おけ)王(後の仁賢天皇)弘計(くけ)王(後の顕宗天皇)で播磨ゆかりの23代24代の天皇である。雄略天皇に父(市部押磐皇子)を討たれため、播磨に逃れ後に清寧天皇の期に皇子に復帰を果たす。清寧崩御後、23代顕宗天皇に継がれる間、姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。権現山頂上50号古墳このあたりの話はとんでもなくわかり難いのだが、系図をみると兄弟従兄弟同士が争い何人もが殺されてしまう。そして25代武烈につづき謎だらけの継体天皇へとつながる訳である。

近藤先生は都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共存が例外なのかそうでないかという問題というか宿題を残されたのだが、私は例外的であるのではと推察する。都月型円筒埴輪(吉備特殊器台型埴輪)に象徴される吉備系と三角縁神獣鏡の中国系との争いと妥協の歴史だと考えれば、この51号古墳がその妥協の産物なのではないだろうかと思う。

権現山頂上50号古墳

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シルクロード/クチャの歌舞と蒜山 大宮踊り

シルクロード/クチャの歌舞と蒜山 大宮踊り 08-Jan.26

大宮踊り nhk本

クチャとは天山山脈の南路(シルクロード)のオアシス都市の名である。このクチャの踊りと蒜山 大宮踊り が似ているというのが田村誠一氏の文章にあるという、田村説では北方遊牧民族の「月氏」が月読の一族の出自であるというものでとても興味をそそられ調べてみることにした。

県立図書館のカードをこの機会につくり「DVD:シルクロード 天山南路/音楽の旅」を借りて、みてみた。石坂浩二ナレーションによる超有名番組で、あいにく当時は興味がなくまったく見ていない奴だが、NHKスタッフと中国スタッフのチームによる「西遊記」の再現のようなものである。天山山脈を鉄道で越えタクラマカン砂漠を車で進むと、今回(僕の)の目的地「クチャ」に到着する。9世紀以降ウイグル族の領域となるが、古代においては亀茲(キジ)国といい、クチャを中心に栄えたオアシス国家で、匈奴と漢民族とのあいだで翻弄され続けてきた歴史を持つ。

このNHKの番組主旨は「このクチャで栄えた音楽文化がシルクロードを通って日本の雅楽になったのでは!」という筋書きである。たしかにここで紹介される仏教遺跡にみえる絵から、唐を通じて日本にというのは実に明快であるが、でもちょっと気になることもあった。それはウイグル族に楽器がはっきりとは引き継がれてないことなのだが、そんなこと説明しようにも僕には無理なのでやめとこう。「玄奘三蔵」に紹介されたこの国民は唄踊りに優れていたとされ、現在のウイグル族の人々がそれを復興伝承すべく歌舞団が構成されていたり、宴会や祭りなどで皆が歌い踊る風習が残っている。その中で踊りや演奏がいくつか紹介されるが、どうも「 大宮踊り 」のイメージにはつながらない。それより手のうごきが琉球沖縄舞踊の感じに近い。両手を頭上にかざして左右に伸ばし縮めるあの仕草なのだが、それは盆踊りの基本的な仕草にも通じるのだろうけど、田村氏はどう感じたのだろうか?しかし氏は蒜山在住であったのだから盆の時期にたっぷりと味わっているはずで、僕のようにWebで少々つまんで見たのとでは比べようもない。今年の夏は是非、実物を鑑賞してみようと思う。

ただ、そんな中、クチャの音楽の名人という老姉弟が紹介された。かれらは、200年くらい前の唄というのをを演奏してみせたが、その弟の担当する侘びた「太鼓」の音色は「蒜山 大宮踊り 」のそれと通ずるものがあった。専門家でない身にとってこれがどれほど似ているのか、または珍しくもないのか判らぬがその独特な響きはえも言われぬ共通項を感じる。あわせて唄のテーマも「月」ということで古代の「月氏」をイメージさせるのに充分であった。

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日本一の 造山古墳 はだれのお墓?

日本一の 造山古墳 はだれのお墓? 08-Jan.15

岡山市新庄下にある 造山古墳 は全長350m、高さ31m、全国では仁徳、応神、履中天皇陵につぐ4番目の大きさであるがその四っつのなかで築造年が最も早いと考えられている。つまり当時、日本最大の古墳であったということになる。

造山古墳

この四大古墳のうち 造山古墳 以外がみな天皇陵とされて陵墓参考地なのになぜ造山は自由に入れてしかも未調査なのだろうか?これを考えだすと夜も眠れない(かなり古い!)。つまりは宮内庁の見解として天皇家とは関係がないといっている訳だが、ではいったい誰のお墓なのだろうか

岡山市の文化財課参与で「古代吉備国を語る会」の出宮氏の「 造山古墳 倭王陵論」に興味深い一文を見つけた。中国洛陽市の文物工作隊の李さんの指摘によると「風水の観点から造山は王陵の占地観にある」というのだ。つまり、背後に日差山を背負い前面の足守川に挟まれた、風水上「王陵」に最適の地を選んでいる。加えて、地図で確認してもらえればよいが、この古墳自体が北東に40度ほど傾いており、その先とその後ろ数kmのところにふたつの「竜王山」という中国好みの名の山があるのだ。

造山古墳の主の正体とは?

この2点から導かれる結論はひとつである。つまり、この墓の主は「中国人」であるということだ。堀り出されている石棺は阿蘇産でいつのころからか露出しておかれていることから「造山のものではないか」といわれているのだが、九州から来た人だと考えれば疑問はない。当時の北部九州は武器、農具、工具などの鉄製の出土品が、他地域に比して圧倒的に多い、つまり北部九州の諸地域が中国王朝の影響のもとに他地域に先行して国を形成した政治的先進地帯であったと言うのだ。いいかえれば、中国の支配下にあったのだ。だからこそ「倭」との間に激しい戦闘が繰り返された跡も数多く見受けられるし、この王が「親中派」あるいは「中国人」そのものと考えても不思議はない。

また石棺が露出して置かれている状態も不思議だ、盗掘目的ならば石棺をほりだす必要はない、ではなぜか?それは「嫌中派」による腹いせ行為なのだ。もちろん以上は極論ともいえる、なにしろ中国に同じスタイルの古墳はないようだし、そもそも「前方後円墳」という「倭」の形式の枠内なのだから。しかし、「親中派倭人」とすればおおくの疑問は解消する、現代日本がそうであるように文化的融合もしくは妥協点の模索というのが古来より我が国のさだめだが、その産物が「前方後円墳」であり、地元民(農民など)のシンパシィを得なければ治世そのものがなりたたなかったはずだ。

このように当時の「倭」における覇権争いが「親中派倭人」と「嫌中派倭人」とのせめぎ合いだと考えれば、「九州親中派勢」に押されるかたちで「吉備邪馬台国」が「畿内」に平行移動していったことも、また後に吉備津彦を派遣して吉備を討伐する逸話も「取り返しにいった」と考えれば、すっきりするというものだ。

前出の出宮氏は造山の主を「倭の五王:讃」ではないか?と述べている。「倭の五王」は各時代の天皇を比定するのが定説であるが「九州王朝説」というものもあり議論の分かれているのも事実だ。でも讃、珍、済、興、武の五人で、これを「倭の五王」ってやっぱり中国趣味な名前だよね。

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浦間茶臼山 古墳

浦間茶臼山 古墳は見つけ難い古都の畑のなか 08-jan.8

ツモロ

遅い昼食をとろうと「ツモロ」に向かった。前ログでも紹介したように量がすごいので、名物のハンバーグはさけてポークを注文する。ところが今日はご主人が声をかけてきた、「うちのハンバーグは食べたことありますか?」「ええ、ありますよ、でも大きいから、、、」「牛肉100%のがあるのよ!あんまり大きくないよ」
ときたから、「じゃあ」ということになった。そして、やっぱり大きかった!

やっとのことでやっつけて、2号線(旧)を東の古都へと向かった。そこには、桜井箸墓古墳の1/2サイズで相似形の浦間茶臼山古墳がありバイパス(新2号線)との合流点あたりがその場所である。ところが感をつけて左方向へはいるがどこにそれがあるのかわからない。

まず、福岡神社を発見、ここかと勇んで登るが違った、でもここは巨大な墳丘墓のようにきれいな形をしている。つぎに妙見宮を発見、ここはどうやら違うが山登りがてら15分ほどで登頂に成功、適度な運動になってよかった。その頂上からは長船から邑久(太伯)そして足元の古都が広々と見渡せ2000年前が甦るような錯覚をおぼえた、そして今日の目的地のあたりもつけられた。慎重に下山して浦間茶臼山古墳に向け細い路へと車をすすめた。

住宅地の奥にその入り口(解説板のある)があるのだが、駐車場がないので西側の道路に停めて入っていく。前方部は削られて小公園化されており綺麗な撥形が確認できる。つづいて後円部に登るとそこは広場となっていて、中心部に荒らされた痕と思しき大きな穴があいていた。

浦間茶臼山古墳

浦間茶臼山 古墳

岡山市内東山にある網浜茶臼山古墳も相似形で箸墓の1/3サイズだそうだ。つまり箸墓、浦間、網浜が6:3:2の率で造られており、時期も特殊器台から特殊器台形埴輪への流れからこの順序でつくられたということか?でも箸墓に特殊器台が現れると同時期に吉備に特殊器台形埴輪が発生するし、箸墓の特殊器台もほとんど特殊器台形埴輪にちかいものでどちらが先とは決めづらい。祭祀器具先進国である吉備で最新のプロトタイプとして網浜を築造した可能性はあるだろう。つまり1/3なのではなくて、3倍のものを実績のある安定したOS(特殊器台)で祭祀を執り行ったのではないだろうか。

現在の網浜茶臼山古墳は岡山市東山(操山)の墓地としてかなりの部分がけずられているが、その後円部のてっぺんに上ると南には海が広がっていた(現在は新田開発された田園がひろがる)ことが分る。そしてその先には神武由来の高島、そして高地性集落の遺跡である貝殻山がそびえ、北を望むと本宮高倉山の三角の頂点がはっきりと見える。この東山は古代より重要な祭礼の地として現代に至までその位置に変わりがない、岡山市内の人間にとって「東山」とは特別な意味をもち、お年寄りが以下のように使う「わしもそろそろ東山が近けぇーけぇのお!」と。

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吉備の 陶棺 とユダヤの関係

吉備の 陶棺 突拍子もない話と思うなかれ!吉備のユダヤ人 08-jan.5

倉敷考古館長の間壁忠彦氏と・葭子夫人共著 『吉備古代史の未知を解く』より、「焼き物の棺は、全国的にみても、その7?8割に当るものが、岡山県下で発見されている。しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも、後の美作となる地域に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」という部分を引用しながら 陶棺 ユダヤ人説を大橋氏が主張している。これは「田村誠一氏の説」を検証しているのだが、このページ「ユダヤ人は美作にいた」の後半に登場する「寒羊の図」の写真をさがしていたが、見つけた。国立上野博物館ではなく東京国立博物館に所蔵されているこれが「寒羊図」の写真(岡山県美作町平福出土)だ。「寒羊」とはイスラエル原産のしっぽの大きく太い種類で古代中国にも確認されておりユダヤ人と中国の関係をうかがわせる、また尾は劣悪な環境に耐えるために脂肪が蓄積されたもので「脂肪羊」ともいわれる。もちろん羊はユダヤ人にとって神の使いである。そして上部に三つの山なみのような波型が見えるがぼくには直感的に蒜山三座だとしか思えない。

陶棺 唐臼墳墓群

左は久米(美咲町打穴西)にある唐臼墳墓群なのだが、ここからも陶棺が発見されており間壁忠彦氏の解説の通り火葬墓が併設している。説明によれば陶棺横面に白い塗料で円い図が施されているらしい。この白い円がどんな柄なのか写真で確かめたい。

そうこうしているうちに面白いものを見つけてしまった。東京国立博物館の写真資料で「寒羊(脂肪羊)図」の陶棺写真を見つけたあと、その下の陶棺(岡山県長船町東須恵本坊山古墳出土古墳時代_7C)を見たらそこに刻まれた模様は「16弁の菊花紋」の図であった。もちろん皇室由緒の紋であるのはお承知の通りだが、これがエルサレム神殿の門にもこの「16弁の菊花紋」が刻み込まれているというのだ。ここで遅ればせながら「日ユ同祖論」なるものを知る事となったのだが、決して突飛な話ではないと今は思っている。実際には「蓮華紋」と呼ばれる文様で仏教的模様とされるが、シルクロード上の遺跡に多く見ることができる。エルサレムの方が影響を受けたのかもしれない。

神道で葬儀が行われなくなったのはいつのことなのだろうか?布津御霊神社の物部宮司は「葬式は寺にまかせてある!」といっていたが、仏教伝来以来ともいわれる。この陶棺が仏式で祭る形式への過程であろうことに異論はないが、習合の過程でみずからの祖神伝説を残そうとするはっきりとした意思を感じる。

「日本人とユダヤ人は同根である」といわれれば、それは「そんなばかな!」と思って当たり前だが、「田村、大橋説」は『「失われた10支族」の一部がシルクロードを通って倭(日本)に辿りつき、「絹の貿易」を主事業として当時の倭国(天皇家)に大きな影響を与えた』というものでこの説にはおおきく頷けるものがある。

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新年早々 石上 布都魂神社でいいものをみました!

初詣 石上 布都魂神社 08-jun.2

明けましておめでとうございます。一月二日、恒例になりました吉井町の 石上 布都御魂神社に初参りにいってきました。拝礼を済ませ、休憩所に入ると物部宮司の息子さんご夫妻が埼玉から戻られてお接待をされていた。お茶をいただきながら、いつものように神社にまつわるお話をしていると、「これをお見せしていませんでしたか?」と右写真の木でできた刀をご披露いただいた。神宝「十拳剣」の再現を木で試みたものである。

石上 布都魂神社 十握の剣レプリカ

写真では判りにくいが刀は内反りになっており反りの内側に刃がある、といってもレプリカだけど。リフレットより「明治七年水戸の人菅政友が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを知り教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊(これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。その時この剣を模して造ることを月山貞一に命ぜられ宮内省に納められた。その影造の剣が本神社に寄進された。」となっている。この刀鍛冶「月山貞一」はもちろん明治時代のひとで「大坂新刀」の名人、人間国宝「月山貞一」は二代目で孫にあたる。

つまり発掘された「十拳剣」をもとに三振りのレプリカが造られ「宮内庁、石上神宮(大和)、赤坂宮(ここ)」に納められたそうだ。そしてその写真をもとにこの木刀がつくられたという訳で、形、大きさは再現できているとのことである。ちなみにこれだけの余裕が現在の宮内庁にないのが残念だ、皇室の歴史がどうであろうと国民感情におおきな変化があるとは思えないのだが!

神宝「十拳剣」のレプリカのレプリカ

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天狗寺山は何故か肩がこる?

天狗寺山(てんぐうぎさん)07-Dec.25
9合目鬼子母神

本日は北に向かって出発した。「木」でカレーをいただいて美作加茂をめざす。途中、先週の倭文につづいて綾部の集落を通り過ぎたがそれらしい神社はみあたらず、数キロで加茂に到着。東西橋を渡り、山への道を地図をたよりに辿ってゆく。舗装がなくなり林道に入る、ここから看板をたよりに上り広場手前のところに車を止めた。じつはここからさらに新しい林道ができていて結局頂上まで車で登れることが後でわかる。この広場から登山道があるのだが、入り口がちょっと判り難い。かるいやぶこぎで15分ほど登ると鬼子母神さまが迎えてくれた。あと5分登り頂上に到着し展望を楽しんだ後、林道を車まで下った。

表題のとおり、何故か肩がこった、それはここから見下ろすことのできる集落がいわく因縁のある場所で、それを自分の「気」が影響を受け気分が悪いのだと思う。じつは、こここそが日本犯罪史上最悪の残虐猟奇事件「津山三十人殺し」の起きた現場集落なのだ。

昭和13年に起こったこの事件は先日の「長崎スポーツクラブ乱射事件」によく似ているのだがその被害者数からまったくスケールが違う。横溝正史の「八つ墓村」のモデルにもなった事件で70年たった現在でも重苦しいものをひしひしと感じる。下山後、集落内の真福寺に立ち寄りゆえなく命を奪われた30人の村人の冥福をお祈りした。

行重部落

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倭文 神社のなぞ?

倭文 神社は織物の神様 07-Dec.18

伯耆一宮 倭文 神社

倭文 と書いて「しとり」(しどり、しずり)と読み、古代日本製の絹などの織物を指す。右写真は鳥取県倉吉市の東にある東郷湖のほとりに静かに建つ伯耆一宮 倭 文神社である。このおりは単に一宮巡りの一環として午に鳥取の宇部神社を訪ねた後、午後日の傾きかけた頃に到着した時のもので、当時読み方もご祭神などの由緒も知らぬ状態であった。がしかし、ここがことのほか重要な場所であることにやっと気がついた。

我々がぼんやりと習ってきた日本の歴史といえば、先進文化はすべて中国朝鮮から学んだものですべてに遅れていたと、そう思い込んでいた。しかし、そう単純なものでは無さそうだ。まず言葉(言語)の問題を探ってみた、すると日本語は北方民族系で、バイカル湖周辺を出発点とした言語に近く、その文法のうえにアジア南方系の単語が進入融和してできているという。つまり思いのほか中国語、朝鮮語との関係が薄く、久米倭文神社文化的かつ政治的に中国、朝鮮の圧倒的影響を受け入れたのであれば、日本語はもっと別のものになっていたはずなのだ。縄文時代から北方南方の文化を基盤として大陸文化を消化してきたといえる。そんな中、秦の始皇帝が蓬莱の国(理想郷)と信じ、不老長寿の薬をもとめて徐福を送り込んだのが倭であるが数千人も連れてきたというから、これは使節というより進駐軍か移民団のようなものだろう。これが秦氏のはじめで機織り(ハタオリ)を伝えたという説などもある。一般的には神功皇后が導入し仁徳天皇が国中に広め振興したというのが定説だが、それより前から倭(日本)で上質の絹織物が生産されていたのではと思う。

過去、岡山の久米郡(現津山市、美咲町)に倭文村(現津山市油木)が存在した、ちなみに隣が大倭村(やまと)である。ここに延喜式内社ではないが、倭文神社がある。(Wikipedia)で倭文神社をみると全国に十七社が書かれておりそのほとんどが現在も繊維産業の盛んな場所で、古代より倭文部の粗神である「建葉槌命(天羽雷命)」を奉ったもの、この倭文神社も同様で、なんとすぐ隣の字(地名)が「桑」である。

「こんな田舎にもその昔は繊維産業があったのか!」というだけではないことが「久米郡史」に書かれていた。倭文五社弊頭為貞國太夫より神祇官への書状に「当社は人皇十代崇神天皇の七年十一月丁卯、神地神戸を定められ、この時よりの御鎮座に御座候」とある。また、本多応之助の「 倭文 往来」の中に「往昔は日止里神社と称し奉り。倭文本宮と唱え尊崇し奉ると旧記にこれあり、何時頃に至りて五宮と席下り、其のいわれ知るべからず。」となっている。つまり、十代崇神天皇の七年十一月(紀元前後の弥生?古墳時代)にできて「倭文本宮」と呼ばれていたということになる。

両山寺

ここ久米から北に上り奥津を経由、または湯原(神湯村)を経由して川沿いに日本海に向かうとそこには東郷湖(池)がある。つまりここ大倭の倭文を積んだ貿易商隊(キャラバン)が積出港である東郷湖に向かう姿がはっきりと見えてきた。[この説は新しい日本の歴史に詳しく説明されています。]

奈良の葛城にも倭文神社(葛木倭文坐天羽雷命神社)がある、そのHPで全国の倭文神社の根本社と名乗り、その背後の当麻寺で有名な二上山の雄山を神奈備山としている。そのサイト内に倭文サミットに関する愉快なエピソードが載っている、つまり他の倭文神社がここを根本社とは思っていないのだ。普通同じ名前の神社の場合由緒の中に「どこそこから勧請された」と書かれているケースは多い。じつはここ久米倭文神社の南にも同じ二上山があるのだが偶然ではなさそうだ。(右写真はその中腹にある真言宗「両山寺」である)

二上山の東南の麓に「誕生寺」というお寺があるが、この地に生まれた浄土宗法然上人にちなんだ寺で法然上人霊蹟一番札所である。そして九番札所が「当麻寺奥の院」で葛城の二上山にある。法然は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国(うるま ときくに)と、母、秦氏君との子として生まれるのだが、この秦氏の祖は仁徳朝阿知使主が率いた漢民で、技術にすぐれ綾錦(あや)の姓を賜った。このとき秦の一族は綾錦の長となり、部民を率いて美作国久米郡に移った。法然上人の母はその一族から出た人といわれる。(浄土宗大辞典より)。つまり仁徳云々はともかく法然は秦氏(倭文部)の血を引き、なぜかその二つの二上山の麓に倭文神社がある。そして盆地をはんだ反対側には三輪山があるのだ。

こうしてまた、吉備と奈良に共通の名前が現れた、そして私の直感ではあるが、葛木倭文坐天羽雷命神社が全国の倭文神社の根本社ということはない!

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奈良 箸墓 ホケノ山 になにがみえたか?

「倭迹迹日百襲姫」って 読める? 07-Dec.11

ホケノ山 古墳

倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)ってなかなか読めない。「読めない!覚えられない!」この苦痛と戦うのが古代史に遊ぶさだめというものか。朝7時に岡山を出発し昼前に奈良大和の桜井市に到着した。まずは腹ごしらえに笠そばに向かう、ここは地域おこしでできた蕎麦屋さんだが、いつも多くのお客さんで賑わう繁盛店で笠山荒神の裏参道口の前にある。

この笠山荒神も由緒によれば3000年前の奉起で、倭迹迹日百襲姫は神浅茅原(カムアサヂハラ)で神憑りするが、この浅茅原はここ「笠」に比定されている、なかなかの重要ポイントだが今日はお蕎麦をいただいて即、山を下り箸中に向かった。

ホケノ山 古墳 に到着 

まずは、 ホケノ山 古墳に到着、箸墓古墳の裏手の線路をこえた国津神社の裏にその4mほどの山はある。龍王山のふもとの畑のなかにポッコリとあるこの凸がどうして「 ホケノ山 」なのだろう、そしてホケノって何?と思わずにいられない。右の写真は現代美術の作品にもみえるが、発掘現場を前方部に再現している図である。そんなこんなでそのテッペンから箸墓を眺め記念撮影をすまし車にもどる。地元の年配のご婦人が我愛車をみて「まあ、遠くから!」と声をかけてくれる「このへんは(古墳)多いからなあ!」と田舎らしい和みをくださった。

さて、つぎは箸墓古墳だが保育園のよこに停めて敷地にはいる。ここは陵墓参考地、宮内庁の管理下で管理人の建物まである。つまり、皇族に深く関係する古墓であると認めているわけだが、そこには世間に披瀝できない根拠というか歴史的資料をもっていると考えるのだが、いかがだろう。(無駄な論争がずいぶん減ると思うなあ!)

この古墳を中心とする纒向(まきむく)遺跡が3世紀前半?中頃の最古の前方後円墳を含む集落とされ邪馬台国ここにありと畿内説を有利とする根拠となっている。発見された土器も九州から東海までの広範囲の製品があり当時の権勢を示すものでこの地こそが邪馬台国であり倭迹迹日百襲姫が卑弥呼だという。だが、そう単純なものだろうか?

まず、吉備特殊器台が箸墓の頂部から発見されたという問題がある。当時の宗教感は現代の我々の感覚をはるかに越えて重要かつ中心的なものであったにちがいない。それをよその国(吉備)の借り物で祭祀を行うことなど考えられようか。畿内説では「多くの国邑の緩やかな連合体だったので各地の習俗、祭祀の手法を取り入れた結果である」というが、では中心となった大和(邪馬台国)のそれはいったいどこにあるのか?遠慮したのか?またこの付近に弥生後期の古墳に移行する前段の有力な弥生墳丘墓などが見つからぬことから、この地に突然現れたと考えられている纒向遺跡をどう説明するのだろうか。

HP「日本建国史」より「ホケノ山古墳は、桜井市箸中に位置する全長約80m、後円部径約60mの前方後円墳である。その西約200mには全長272mの箸墓があり、この箸墓より古い時代の築造とされる。更に北西約1kmには東田大塚、纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚など、全長90m前後の前方後円墳が存在する。いずれも後円部の径が60m前後で、ホケノ山古墳と近い年代の築造と推測されている。」作者である『自称:曲学の徒』さんは「邪馬台国畿内説」を唱える方だが、この古墳群の規模内容から、王墓と考えられるが築造年が卑弥呼在位中とすれば矛盾するといわれる。よって2世紀中(卑弥呼以前)に造営されたと結論されている。わたしも「在位中の築造は矛盾」には同感だ。

箸墓古墳全貌

箸墓古墳全貌

岡山市の古都(こづ)にある浦間茶臼山古墳はこの箸墓のちょうど半分サイズの相似形だといわれている。これを同一の設計図をもとにつくられたと説明されるが、それよりまったく同じ制作集団(担当者)ないしはその系譜の者によると考えるのが合理的ではないだろうか、つまり吉備でも奈良でも同じ勢力が建築したのだと。ちなみに倭迹迹日百襲姫は岡山神社の祭神でもある。

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