浦間茶臼山 古墳は見つけ難い古都の畑のなか 08-jan.8
遅い昼食をとろうと「ツモロ」に向かった。前ログでも紹介したように量がすごいので、名物のハンバーグはさけてポークを注文する。ところが今日はご主人が声をかけてきた、「うちのハンバーグは食べたことありますか?」「ええ、ありますよ、でも大きいから、、、」「牛肉100%のがあるのよ!あんまり大きくないよ」
ときたから、「じゃあ」ということになった。そして、やっぱり大きかった!
やっとのことでやっつけて、2号線(旧)を東の古都へと向かった。そこには、桜井箸墓古墳の1/2サイズで相似形の浦間茶臼山古墳がありバイパス(新2号線)との合流点あたりがその場所である。ところが感をつけて左方向へはいるがどこにそれがあるのかわからない。
まず、福岡神社を発見、ここかと勇んで登るが違った、でもここは巨大な墳丘墓のようにきれいな形をしている。つぎに妙見宮を発見、ここはどうやら違うが山登りがてら15分ほどで登頂に成功、適度な運動になってよかった。その頂上からは長船から邑久(太伯)そして足元の古都が広々と見渡せ2000年前が甦るような錯覚をおぼえた、そして今日の目的地のあたりもつけられた。慎重に下山して浦間茶臼山古墳に向け細い路へと車をすすめた。
住宅地の奥にその入り口(解説板のある)があるのだが、駐車場がないので西側の道路に停めて入っていく。前方部は削られて小公園化されており綺麗な撥形が確認できる。つづいて後円部に登るとそこは広場となっていて、中心部に荒らされた痕と思しき大きな穴があいていた。
浦間茶臼山 古墳
岡山市内東山にある網浜茶臼山古墳も相似形で箸墓の1/3サイズだそうだ。つまり箸墓、浦間、網浜が6:3:2の率で造られており、時期も特殊器台から特殊器台形埴輪への流れからこの順序でつくられたということか?でも箸墓に特殊器台が現れると同時期に吉備に特殊器台形埴輪が発生するし、箸墓の特殊器台もほとんど特殊器台形埴輪にちかいものでどちらが先とは決めづらい。祭祀器具先進国である吉備で最新のプロトタイプとして網浜を築造した可能性はあるだろう。つまり1/3なのではなくて、3倍のものを実績のある安定したOS(特殊器台)で祭祀を執り行ったのではないだろうか。
現在の網浜茶臼山古墳は岡山市東山(操山)の墓地としてかなりの部分がけずられているが、その後円部のてっぺんに上ると南には海が広がっていた(現在は新田開発された田園がひろがる)ことが分る。そしてその先には神武由来の高島、そして高地性集落の遺跡である貝殻山がそびえ、北を望むと本宮高倉山の三角の頂点がはっきりと見える。この東山は古代より重要な祭礼の地として現代に至までその位置に変わりがない、岡山市内の人間にとって「東山」とは特別な意味をもち、お年寄りが以下のように使う「わしもそろそろ東山が近けぇーけぇのお!」と。