金屋子神考察行脚 天児屋 たたら 跡
『鉄山秘書』のなかの「金屋子神祭文」には,おおよそ次のような伝承がある。
(1) 金屋子(カナヤゴ)神の示現 大昔のこと, 播磨国宍相(粟)郡岩鍋という山間の村では大旱(ヒデリ)が続き, 村人は困って山に集まり雨乞いをしたところ, 天から神が示現して大粒の雨を降らせた。 村人がその神の名を聞いたところ, 「わたしは金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)ともいう金屋子神である」と明かす。そして,村人にタタラによって鉄を作ることを教え,様々な道具を作る技術を人々に授けた。そして,「これから西の方へ行き,鉄を吹き道具を作ることをさらに多くの人々に教えねばならない」と,白鷺に乗って天空高く飛び立った。
(2) 出雲国比田・黒田への飛来 その後, 金屋子神は出雲国に飛来し,能義郡比田の森に降り立ったと言う。西比田の黒田というところの桂の巨木に羽を休めていたところ,安倍の祖-正重という者が犬をあまた引き連れて猟に来ており,白鷺の発する光明を見て正重の犬たちが驚き吠えた。そして,安倍正重はおそるおそる問うた。「あなたは誰か,この地に何をしに来たのか」。すると神は「われは金屋子の神なり,ここに住いして『タタラ』を仕立て,鉄(カネ)を吹く技を始むべし」と告げたという。
(3) 出雲タタラのはじまり 金屋子神のお告げを受けた正重は, 長田兵部朝日長者にことの次第を話し, まず桂の木の脇に金屋子神の宮を立てた。以後正重はこの宮の祭祀を司り, 朝日長者は以後「タタラの村下(ムラゲ)-総指揮」に任ずることとなった。タタラの高殿の建設には,金屋子神の多数の眷属神が手助けする。最初に現れて七十五種もの必要な道具を作ったのは,七十五人の子供の神であったという。
異伝によると,播磨の岩鍋に示現した金屋子神は, ここで「鍋を鋳た」ものの安住すべき山がなく,白鷺とともに西方に飛び去ったとも言われている。とにかくである。その後ここ出雲国の比田では,朝日長者が砂鉄と炭を集めて吹けば,金屋子神の神通力の致すところ「鉄の涌くこと限りなし」ということになった。これが金屋子神によるタタラ製鉄が, 出雲国一帯へ拡大していく端緒となったものである。
金屋子神とはたたら製鉄の神様である、詳しくは上記引用のSource「紙老虎的世界」さんのHPを参考にしていただきたい。たたらの山の民のそばには必ず(多分)金屋子神が祀ってあるのだがその本宮が島根県安来市広瀬町西比田にある金屋子神社である。このそばに金屋子神話民俗館があり訪ねてみた。ひっそりとした山奥に立つコンクリートの民族館では店番の女性が迎えてくれたのだが五月連休なのに、客は一人の男性と我々だけであった。ここに上記の祭文が展示されているが、これによればその昔播磨の岩鍋に始まった製鉄が出雲に伝えられたというわけだ。
金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)という別の名前を持つ金屋子神だが、金山彦は美作一ノ宮「中山神社」の祭神でありまたの名を「南宮」という、岐阜「南宮大社」も祭神は同じ、さらに「吉備津神社」と「諏訪大社」は南宮と呼ばれている。中山神の伝説についても「紙老虎的世界」を参考に読んでみてください。つまり、播磨に始まった製鉄が吉備を経て出雲に至ったわけである。
こうなると播磨の岩鍋を訪ねねばなるまいというわけで、後日、今度は兵庫県千種町の岩野辺にフィールドワークだ。
岡山から湯の郷をぬけて東粟倉、ここまで約2時間30分、岡山県の東北の極地である。後山の麓に向かい日名倉山の峠を越えると兵庫県、下っていくとそこは千種町、そこから数キロ東の集落が目的地の岩野辺(岩鍋)である。残念ながらこの付近には写真の巨大記念碑しかモニュメントはないが、千種町から北7kmほどの西河内に、「たたら学習館」と「天児屋鉄山跡たたら公園」がある。近世まで操業されていたということでその山内と呼ばれる製鉄所の石垣などがきれいに残されている。(右写真はそのジオラマ)ここで生産された天児屋玉鋼が吉備に運ばれ長船の刀になったということらしい。実物は確認できなかったが、もちろんこの山内にも金屋子神は祀られているそうである。
ここから「金屋子神」&「中山神」(同一なのか時代が違うのかが不明だが同一勢力ではあると思う)が吉備の神宿に現れるという話は前ログの「謎の神宿を訪れる!」と紙老虎的世界」さんのHPをご覧いただくとして、次は岡山のたたら跡を訪ねてみよう