出雲 弥生の森 博物館

出雲 弥生の森 博物館

出雲 弥生の森 博物館 四隅突出墓 模型邪馬台国の卑弥呼が生きた弥生時代後期、出雲に巨大な王墓「四隅突出型墳丘墓」が現れる。その王墓が並ぶ国史跡・西谷墳墓群の隣接地に4月29日、出雲 弥生の森 博物館が開館したのでさっそく訪ねた。(島根県出雲市大津町2760 Tel 0853-25-1841 ●休日毎週火曜日)

出雲の王の模型や葬儀の様子を復元した巨大ジオラマが、たいへんよくできているのだが、右の写真に注目していただこう。「四隅突出墓」の上に4本の太い柱を建てている様子が再現されている。これは諏訪大社の御柱と同じではないのか?その関連についての解説はなかったが埋葬施設の周りに4本の柱穴が存在し、祭祀に重要な道具だてであることはちがいない。さらに吉備「楯築弥生墳丘墓」との共通点が多く指摘されており、出雲と吉備の関係を伺わせるという。

御柱祭でおなじみの諏訪大社は南宮と呼ばれているが、一般的な南宮大社(なんぐうたいしゃ)は、岐阜県不破郡垂井町に鎮座する美濃国一宮の神社で「延喜式神名帳」にも仲山金山彦神社として名が見える。そして我が吉備の美作一宮の中山神社も「南宮」とよばれ御祭神は金山彦である。四本柱さらに備中一宮「吉備津神社」も「南宮」と呼ばれるのだ。つまり「南宮」と呼ばれる宮は皆「鉄」に関係しているわけだが、この西谷の王墓もその根源的な存在ではないのだろうか!

この「四隅突出型」と「加悦町の墳丘墓」そして真打ち「楯築」の三つの弥生墳丘墓の関係が非常に重要だと思う、どれも当時として巨大であり後の「前方後円墳」誕生への要素を備えているからだ。特にこの「西谷3号墳」の上には多数の吉備特殊器台がおかれていたのだが、こちらの解説では「吉備の人たちもこの大きな焼き物を持参して御祭りするほどこの出雲の王は影響力のある大王であった」としている。が、すこしひいき目な見解だと思う。なぜなら、それ以前の出雲には大きな墓制度が存在しないからだ。『日本書紀』崇神天皇60年7月ノ条に次のような話がある。

天皇はタケヒナテルノミコト(武日照命)が天から持たらした出雲大神の神宝を見たいと言われ、タケモロスミ(武諸隅)を出雲に使わした。このとき、出雲の支配者だったイヅモノフルネ(出雲振根)が北九州の筑紫へ行っていて留守だった。その留守に弟のイイイリネ(飯入根)が勝手に出雲の神宝を朝廷に奉ってしまう。そこで、兄弟の間に争いが生じ、振根が飯入根を殺害してしまう。事件を知った大和朝廷は、タケヌナカワノミコト(武淳河別命)とキビツヒコ(吉備津彦)を出雲に派遣してイヅモノフルネを誅殺してしまう。

この話をまとめるとタケヌナカワノミコトとキビツヒコが出雲を制圧したということである。 吉備津彦が新羅系ヒボコ族ではないかと私は考えているが、武淳河別命も茨城県結城の健田須賀神社に須佐之男命と共にまつられており(他にあまりヒットしないけど)絹産業の歴史をもつ此の結城との関係からすれば同系と考えておかしくない。また安倍臣、布施臣、竹田臣の祖となっているのだが、岡山県鏡野町富の布施神社は字(あざ)を「白賀」(シラギの転訛)という鉄の産地であることなどから「新羅系」のまっただ中といってよい。

つまり「吉備特殊器台」を祭祀の中心に受け入れたということは、吉備の宗教観を受け入れたことに他ならず、この記紀に伝える出雲神宝事件の現れと考えてもよいのではないだろうか。

猪目洞窟 人体骨 ごほうら貝腕輪

この博物館のもうひとつの見物は猪目洞穴から発掘された遺物だ。大国主が最後を迎えたという猪目洞穴(鵜鷺:うさぎ)は「黄泉の穴」ともいわれている。出土品は弥生時代から古墳時代にかけてのもので人骨が十数体あり、屈葬と伸展葬の両式が見られ、腕にはめた貝輪やたかつき、大小のつぼ等の副葬品が多数あった。地元の人はこの洞窟を「皇泉の穴」と言っている。この写真のように、卑弥呼のようなシャーマンかと思われるような人物の骨がほぼ完全な姿でゴホウラ貝の腕輪とともに発見されている。

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