貝殻山遺跡 高地性集落 っていったい何だろう 08-Feb.18
高地性集落とは弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設だ。貝殻山は岡山市内から南に位置する児島半島にあり手頃な山歩きコースなので時々訪れる。登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区に整備されている、車を止めて金上池コース(東周り)を登り約50分で頂上の公園に着いた。今日はひさしぶりの暖かい一日で頂上芝生広場でのんびりと寝転んですごした。
「ぼくのなまえはヤン坊♪♪」
貝殻山遺跡は弥生時代中期に出現し6棟の竪穴式住居あとと貝塚、分銅形土製品などが発見されている。鴫沢遊児さんのHPの高地性集落を参考にしてもらうとわかるように弥生時代3期4期5期ではそれができる場所が変化している。よく考えてみると見張り施設であれば対立したどの部族でも必要不可欠なものだろうから、どんどん変化することに不思議はない。特に高地性集落には環濠のあるものとないものがあり、これを時代による防御機能の進化とみることもできるし、対立する陣営の特徴をあらわすものかもしれない。
分銅形土製品というのはこの時代に吉備を中心に発見されるおまじない道具のようなものでそれこそ分銅の形をしている。さらに前ログにも書いたとおり、この地点は楯築遺跡からみて冬至の日の出の昇る方角であり、しかも見通せる。であるとするならば(by石破しげる)この施設はもともとこの吉備地域に勢力をもつ陣営のものつまり倭国(邪馬台国)の施設に違いない。瀬戸内海は180度開け南には四国が見える、北は我が家のほん近所の操山(古墳だらけ)にある見張り施設?の旗振台などすぐそこにみえ、手旗での通信も可能かとおもえるほど近い。実際に江戸時代末から明治時代にかけて、大阪・堂島の米市場での相場が、毎日旗を振って暗号でリレー形式に伝えられたのだそうだ。しらべてみないとわからないがそのずっと昔から通信設備として利用されていたのだと思う。
さて、そろそろ下山である、今日は宮浦にくだる五石コースをとった。上の写真は、五石のひとつの「隠れ石」からみる岡山市全景で、真ん中に見える小さな島がかの高島である。