梅原猛を追って 播磨三社 を行く

播磨三社 を行く 2009 10月

梅原猛先生とは日本の哲学者。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。京都市名誉市民。文化勲章受章者。梅原日本学と呼ばれる独自の世界を開拓し、またスーパー歌舞伎を創作するなど、幅広い活動を行っている。

播磨三社 射楯兵主神社

この梅原先生が「芸術新潮 09 Oct.」の誌上で自らの過去の「出雲神話作話説」を否定し出雲神話ゆかりの地を訪ね、新たな論考を加えるという企画が掲載された。自説を真っ向から否定するというのは、真実を求める学者であれば当然のことのようだが、これは大変難しいことであり、私はその柔軟性と自信に溢れた考察におおいに感心もし、尊敬の念を抱いた。そして、すぐさまその足跡を追ってまずは東に向かった。最初の目的地は姫路である。

出雲のエリアが播磨まであった残滓として一宮の伊和神社に伝わる一ツ山大祭と三ツ山大祭が播磨国総社「射楯兵主神社」に移って現代も奇祭として残っているそうだ。ここは播磨国の総社である。兵主神に射楯神を合祀し、また播磨国174座を一括して合祀している。兵主大神は大国主命,射楯大神は五十猛尊のことである。写真は姫路城そばにある神社の資料室にある小袖山の模型、山のてっぺんが依り代で実物は高さ18M、径10Mというからおそろしくでかい。本物みてみたい!

御方神社

つづいては、姫路を後にしてこのお祭りの元といわれる伊和神社に向かう。伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市にある神社、播磨国一宮で『播磨国風土記』で活躍が描かれている伊和大神(大己貴神)を祀る。三つ山祭は61年に一度、一つ山祭は21年に一度催行される。三つ山とは白倉山・高畑山・花咲山、一つ山とは宮山のことで、これら四つの山は伊和神社を囲む位置にある。それぞれに岩磐と祠があり、祭礼では祠を整備し、これらの山を遥拝する。山岳信仰、磐座信仰の名残と見られる。この神社は本殿が北を向いている、これは大変めずらしく此処と「吉備津神社」しか私は知らない。磐座信仰はもとよりだが、方位信仰、北辰信仰の名残りかもしれない。出雲の方向を向いているという意見もあるが、北に出雲はない。

祝日だけに多くの参拝者が訪れていた、ここは何度目かの訪問なので、二三枚写真を撮って次の目的地「御方神社」に出発する。だんだんと田舎らしくなってゆくがしっかりナビとにらめっこしながら無事到着した。

風土記にオオクニヌシのライバルとして登場するのがアメノヒボコ(天之日矛、天日槍)である。ヒボコは現在の兵庫県出石を拠点とし『古事記』、『日本書紀』垂仁天皇紀に新羅の王子として、『播磨国風土記』には神として著わされる。この両者が『播磨国風土記』のなかで壮絶な戦いを展開する。その内の「蔓なげ」のエピソードにゆかりの深いのがこの御方神社だ。

由緒によれば
 式内小社。『播磨風土記』には、「御方とよぶわけは、葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿[しにだけ]にお行きになり、 お互いにそれぞれ黒葛(蔓草)を三条足に着けて投げ合いなされた。その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多郡、一条は夜夫郡、もう一条はこの村[御方里]に落ちたので三条[みかた]と云う。 天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志[出石]の地を占めておいでになる。
 あるいはこうもいっている。大神が形見[形しろ]として御杖をこの村に立てられた。だから御形という。」と記している。鉄資源の簒奪合戦の最終局面と思われる。『日本の神々2』によると生野、神子畑、明延など現在の鉱業地に比較的近いとのこと、また黒地、金屋、釜河内、黒原と言う地名があるとのことである。 また、河川の合流するポイントであり、交通・産鉄の要所であったと思われる。
 祭神については、以前は左殿に月読神、中殿に高皇産靈神、右殿に素盞嗚神であったようで、主役と思われる葦原志許男神  と天日槍神が居ないのが興味深い。以前の祭神は三種の神器である勾玉、鏡、剣の象徴と思われ、記紀史観などに影響されたものだろうと思う。 本来の祭神は不明だが、一座とすれば葦原志許男神と同神と見られていた伊和大神であろう。HP「神奈備にようこそ」より引用

宮司さんがかたづけをしていた、訪問の理由を話すと、楽しそうに梅原先生のお話を聞かせてくださった。というわけで、このあとオオクニヌシとヒボコの関係に注目していこうと思います!!

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