平成19年 初詣!石上布都魂神社(いそのかみふつみたま) 07-Jun.1
あけましておめでとうございます。ここ石上布都御魂神社への初詣は3度目となる。3年前 Web上でみつけた岡山県吉井町のこの謎の神社を訪ねたのが僕の「神社巡り岡山の古代史探訪」のはじまりだった。
藤本さんのHP「吉備の国探訪」石上布都御魂神社の項の冒頭を紹介しよう。『日本書紀は、写本によって記述が変わるが素戔鳴尊が、大蛇を退治した記述のなかで、退治した大蛇の中から草薙の剣が出てくるが、その退治した剣は「吉備の神部の許にあり」とか「鳥上の山これなり」「石上にあり」とか表現される 。、、、、
(参照 HP吉備の国探訪)』
つまり、日本書紀によれば素戔鳴尊が、大蛇を退治した剣「十握劒」は元々ここのご神体で、出雲神話だと思っていたこの大蛇退治の舞台もこの吉備赤坂であり、天理の石上神宮もここが元社であったという話な訳である。ここを皮切りにいろいろ調べてゆくに、大和と吉備の関係はより深い関係というより大元が吉備勢力であり「邪馬台国」も吉備に存在したのではと今では思っているくらいだ。
左に紹介するのは石上布都御魂神社物部宮司である。素戔鳴尊を祀るとしたらこの上ないお名前であるが、実際には池田藩に再興されたおりに「物部」の姓を授かったという経緯らしい。このかたはお話上手で昔話をいろいろと教えていただける。最近聞いたお話では『昔、このしたの道を馬喰が牛を沢山、美作のほうから岡山に運んでいた』ということだ。つまり昔から岡山は牛の産地(いまでも!)でしかも陸路を使っていたということだが、よく考えてみるとこのサイズの動物は川を渡れず船も無理だったという訳だ。
ひととおりご挨拶をすませ奥宮に登る、ちょうど中間あたりがこのように眺望がひらける。ちょうど前ログに書いたように写真に見える矢印(南方)の先にははっきりと高倉山の頂上がみえる。そしてその先には石高神社や曹源寺があるという訳だ。
奥宮まで約500m、巨大磐座をまえに作法どおりのお祈りを捧げる。ここを皮切りに中四国の一宮を総て踏破したわけだが、結論としてここが一番小さい一宮神社である。ぼくはそこにとても興味を惹かれる。一宮とは令制国の第一の宮を指すのだが備前には吉備津彦神社がすでにあり、またそこと勢力を競っていたのであればここはもっと大きくてよいはずなのだが?
もう一つ、神社の元祖は三輪山麓の大神神社ということになっている、それは本殿拝殿などをつくる形式になってという意味なのだが、本来の古代神道は社もなくご神体そのものを拝んでいたはずだ。つまりここ布都御魂はその大神神社以前の古代神道祭祀場で道教や北辰信仰の影響を強く受けた信仰の聖地であったと考えられる。また、赤坂という地名も鉄鋼(てつはがね)の集散地で先ほどの陸路と吉井川の水路とは両睨みできる要衝の地だったにちがいない。