土師部の祖 野見宿禰 考 2012 Jan.21
前項ログでわたしは、『相撲の元祖「 野見宿禰 」は物部氏ではないのか』という私見を記した。このような考え方はNet空間広しといえどもだれもふれていない。つまり「ありえない話」の類いということだろうが少しまとめてみよう。
元祖横綱 野見宿禰
『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこと、次のように伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいた。それを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させ見つけだされたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲が催された。結果は 野見宿禰 の勝ち、當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、 野見宿禰 に与えられた。 野見宿禰 はそのままとどまって天皇に仕えたという。
この相撲が行われたとされるのが桜井市の山辺にある穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社に向かうすぐ手前の相撲神社である。なんだか荒れて原っぱのようにもみえるが土俵のあとも薄らみえた。説明板に「昭和37年10月6日、大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主にニ横綱(大鵬、柏戸)五大関(琴ヶ浜、北葉山、栃ノ海、佐田ノ山、栃光)をはじめ、幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ、この境内のカタケヤシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納された。」と記されている。
手数入り(でずいり)とは横綱土俵入りのこと、オールドファンには懐かしい名前が並んでいるが、ここでのポイントは相撲神社ではなく大兵主神社に奉納したことで、この大兵主とは天のヒボコである。つまり 野見宿禰 を祭神とする相撲神社に奉納したのではなく天のヒボコに奉納したということだ。そして、左写真に写っている(小さくて読めない!)が 野見宿禰 は天穂日命の十四世とされている。
埴輪の創始者 野見宿禰
垂仁天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられたとき、身狭の築坂に陵を築き葬った。このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。その後、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。そのとき、野見宿禰は埴土(はにつち)で人や馬を形どった土物(はに)を作り生きた人に替えて陵墓に立てることを献策した。天皇は喜び、野見宿禰に土物を作ることを命じた。野見宿禰は出雲から土部(はじべ)百人を呼んで、土物を作り日葉酢媛命の墓にたてた。その功績により、野見宿禰は土師の職に任じられると同時に、本姓を改めて土部臣と称した。野見宿禰の後裔である土部連が天皇一族の葬儀を司るようになったのは、このためである。(野見宿禰記事引用先:DonPanchoさんHP)
十四代前の祖先 「天穂日命(あめのほひ)」
Wikipediaより引用
アメノホヒは、日本神話に登場する男神。天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリ(別名:建比良鳥命)および剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。
ということで、現在の出雲大社宮司家で出雲国造(コクソウ)家の千家・北島両家の祖先で意宇(おう)郡の神魂(かもす)神社を創建したということなのだ。この神社には野見宿禰が、巨石を相手に修行をしたという伝承があり彼が此の付近(意宇郷)の出身者であることを伺わせている。
さて『出雲国造神賀詞』では天穂日命は子のアメノヒナドリ(別名:建比良鳥命)および剣の神フツヌシとともに地上を平定した、ということだが剣の神”経津主神”(フツヌシ)とは布都御魂で物部と考えてよい。吉田大洋氏著の「謎の出雲帝国」に登場する「語り部の富氏」によれば「吉備勢力(ひぼこ族と物部族の同盟軍)に出雲民族は殲滅された。」と語り、また神魂神社宮司家の「秋上氏」は自らを物部の系譜とし、出雲進駐の前線基地が意宇郡の神魂神社であるとしている。(多分に吉田氏の論も加味されている!?)
【崇神紀の出雲神宝事件】
吉備と物部とが協同的に出雲に関わる事件、日本書紀崇神六十年条の出雲神宝事件にも触れておきたい。大和は矢田部造の武諸隅(たけもろずみ)(矢田部は物部氏)を出雲に遣わして、その神宝の奉献を求める。この時、神宝を管理していた出雲振根(いずもふるね)は筑紫に出掛けて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が神宝を奉献する。筑紫から帰ってこれを知った出雲振根は怒って飯入根を殺す。飯入根の弟や子らが、このことを大和に訴えたので、大和は吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を派遣して出雲振根を誅殺する。更に、出雲の神宝については、垂仁二十六年条にも、物部十千根(もののべのとうちね)に、神宝を調査させる話が出てくる。(記事引用先:金谷さんHP)
この話のポイントは「物部と吉備が協力的関係で出雲に影響力を及ぼす」ところと「弟の飯入根(いいいりね)がすんなり従い、それを兄である出雲振根(いずもふるね)が弟を殺すとその弟や子らが、大和に訴え、吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)が派遣され出雲振根を誅殺する。」という部分で物部と吉備の強い関係とともにどうも絆の薄い兄弟関係だなあという点である。
私はこう思う、振根と弟の飯入根とはともに天穂日命の系譜とされるが、弟の方は意宇の物部系ではなかったかと。そうすればこの不可解な話も理解できる。
まとめ
私は出雲に進駐した吉備物部がこの意宇郡に拠点を置いたのだ考えている。その証拠といえるかどうか、このエリアには前方後方墳が多く存在するが、吉備に存在する代表的なそれは「湯迫車塚、一丁ぐろ」で共に物部系の色がとても濃い。その地区の出身者として野見宿禰が登場するのであるから、彼が物部であり祭祀を司る部族として埴輪の創始者の名誉を受けたのだと考えている。さて次のログではなぜ前方後方墳が物部なのか?という論証を通じて物部の謎をさらに解き明かして行きたいと思う。