寺澤薫 氏 講演会にいってきました。 造山蘇生会主催

寺澤薫 氏 演題

「 纏向学 事始め」 寺澤薫 氏

2014/5/31 高松公民館

寺澤薫

纏向学 というの は纏向遺跡 に集約された 研究 を狭い範囲の学問と 呼んで 進める というやや 新しい コンセプ トによるものである。 纏向学 研究センターは 桜井市 の中では独立した組織で人事的にも市長直属ということらしい。簡単に 寺澤薫 氏のお話をまとめると以下のような感じである。(おおきな 間違い があれば ご指摘 ください。)

  • ●Point_1,(国のあり方の変化) 国家論 とでもいおうか、 弥生時代 の 戦争圧力 により 小さな 国邑 だったものが 倭国 という 単位 の 国家 またさらに 纏向 を 中心 とした 大きな 国 へと 変化 して いくと説明し、「 卑弥呼 共立 」などはその 過程 にあることとしている。
  • ●Point_2, 纏向 は突然あらわれた 政都 であり、 搬入 土器 や 古墳祭祀 から、 北陸 、 吉備 、 出雲 、 讃岐 、 阿波 、 東海 などの 移入 がみられ 副葬品 と 祭祀 からは 北部九州 と 吉備 の 影響 が強い。
  • ●Point_3, 倭国王 帥升 は 伊都国 で 倭国 、 平原遺跡 一号墓 が その墓 である 可能性 大。
  • ●Point_4,その後、 倭国大乱 となるが 吉備 、 出雲 、 丹波 などもその プレーヤー だろう、がしかし 奈良大和 にはその レベル の 国 は 存在 しない。
  • ●Point_5, 男王 では まとまらずに 女王 卑弥呼 を 迎えたのだが、 その 出身地 は 不明 でありかえって 大国 の 吉備 や 出雲 ではなく 小国出身 かもしれない。
  • といった 感じ ですが、 以下 は 私 の 感想 を述べてみます。

    なんらかの 勢力 が 合従連衡 しながら 奈良 へ 東遷 したとする 点 では 共感 するが、 北部九州 の 中心 が 伊都国 でその 勢力 が 纏向 に 重要 な 影響 を 与えている という部分 はしっくりこない。 平原一号墳 の 副葬品 の 豊かさ や後への 連続性 が その主な 理由 だと思うが、 倭人伝 には 伊都国 は 近所 の 奴国 より かなり 小さい国 とされ 、 代々 王 がいたが、 女王国 に 統属 しているとしている。 また、 一大率 にいても

    原文 の およその 意味 は 、「 女王国 より 北には 、 特別 に 一つの 大率 ( たいすい 、 だいそつ ) を置いて 諸国 を 監察 させており 、 諸国 は これ を 畏(おそ)れている。 大率 はいつも 伊都 国で 政務 を 執り、 それぞ れの 国 にとって 中国 の刺史 (しし) のような 役割 を 持っている。 王 が 京都 ( 洛陽 ) や 帯方郡 や 諸韓国 に 使者 を 派遣 したり、 帯方郡 が 倭国 へ 使者 を 遣わす ときは 、 いつも 津 ( しん ・ 水上 交通上 の 関 )で、 文書 や 賜与 された 物品 を 点検 して、 伝送 して 女王 のもとへ 到着 する時に、 間違い が ないようにする」ということ である。from wikipedia

    と あるように 「 女王国 」 の 出先機関 としての 役目 を 果たしている。 つまり 纏向 への 勢力 東遷 に 主役 の 一員 を 果たした とは 想像 できないのだ。 現に その時代の 発掘物 に 九州勢力 が 東へ移動 した 形跡 はほぼない とされている。また、福岡ドーム付近の西新町遺跡からは相当数の吉備型甕が出土しており吉備からの影響もかなりあったことが窺われる。帥升が伊都国王であったとの説を完全否定できるものではないが、後々まで影響力を持てたかは疑わしいと思う。

    また平原遺跡一号墓を当時の弥生時代の最高の王墓と評価しているが、時代が楯築よりも数十年早いと考えられているのだろうか?(録音を聞き直してみます) 被葬者が女性である可能性が高いとされており、その年代感も楯築とあまり変わらないのではと思ったりもするし、その副葬品の管玉と耳璫から判断すると、この墓は、3世紀のものとする説もある。ちなみに寺澤氏は楯築を古墳の原型と明言している。

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    物部 氏についての考察 その4 前方後方墳 の謎

    物部 氏と 前方後方墳 について考える

    主に 弥生時代 後期末 から 前方後方墳 の 祖形 である 前方後方形墳丘墓 が 造られ 始め 古墳時代 前期前半 に 東日本 ( 中部 ・ 関東 地方 )で 前方後方墳 がよく 造られる。 西日本 の 前方後円墳 の 世界 に 対し、 東日本 は 前方後方墳 の 世界 であったと捉えることができる。なお、100メートルを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和に集中し、あとは下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつ存在する。1つの説として、政治勢力としては、西日本は邪馬台国を中心とした政治連合であり、東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であったが、東の狗奴国中心の連合は、西日本の邪馬台国連合ほど強固な連合ではなかったとするものがある。また、この濃尾平野の勢力は、『魏志』倭人伝に記載のある倭の女王卑弥呼の邪馬台国と闘った狗奴国との関係を想定する学者もいる。日本列島には約500基の前方後方墳が存在する。
    Wikipediaより

    前方後方墳のイメージ

    前方後方墳のイメージ

    前方後方墳についてWikipediaの著者(編集責任者は存在しないのでWikipediaを鵜呑みにしてはならないのが常識である)は、東日本の文化のように捉えているが、古墳の場合その築年代や大きさ質を区別して考えなければ数が多いだけでは何ともいえない。典型的には右の図をとおり前方部がばち型の四角で後方部がやや几帳面な四角である。ときどき図の上のほうが前部といったほうが自然だと思われる方もいらっしゃるが、それは上から見たときのイメージでそう感じる訳で自分の寸法で見てみればやはり手前が前部なわけです。(判り難い?)
    この形は前方後円墳と同様に弥生末に現れるので、同時に発生してなおかつ趣旨がちがうのだと考えるが、Wikipedia(本文)をご覧になってお判りのように「この型が何を意味するのか?」は議論百出で謎のままなのだ。「物部氏についての考察」なのだから、ここで私は物部氏と前方後方墳が何らかの関係があるのではないか?という趣旨で論をすすめて見たい。

    ヒントをくれたのは、あの「タモリ!」だった

    TVで「ぶらタモリ」という番組をやっていた、森田一義さんらしい街歩き発見番組でお気に入りである。その日は東京府中、冒頭にこの「大国魂(おおくにたま)神社」が紹介され、府中というのがこの神社を中心に成り立っているのだと直感した。

    大国魂神社 東京府中市

    大国魂神社 東京府中市

    府中という地名は律令制の国府のなごりであるが、大国魂とは饒速日命で大物主であると考えはじめていたのですぐに「国府と大物主」の関連性がアイデアとして浮かんで来たのである。つまり当時の行政の中心である国府には大物主が祀られていたのでは?という仮説だ。もちろん直接的な因果関係でないにしろその地域の栄えた場所に大物主がいたとなればその意味は大きい。さっそくいろいろ当たってみた

    • 岡山 総社市;麻佐岐神社(大物主)
    • 岡山 岡山市国府市場、四御神;大神神社(大物主)
    • 岡山 赤磐市馬屋、岡山市牟佐;高蔵神社(天火明;物部)

    と、ここで気が付いたのが本題である「前方後方墳」だ。四御神;大神神社の背後の山(竜の口山)の中腹にはあの有名な「備前車塚古墳」、そして麻佐岐神社の中腹には今注目の「一丁ぐろ古墳」でどちらも初期の大型前方後方墳である。つまり、国府との関係もさることながら大物主( 物部 氏)と前方後方墳の間に何らかの繋がりがあるのではないだろうか?
    そこで、目を少し岡山以外に向けてみよう。まずは最大前方後方墳の西山古墳(にしやまこふん;183m)、奈良県天理市御経野町・勾田町・杣之内(そまのうち)町にある古墳で、1927年(昭和2年)国の史跡に指定。ここは天理参考館の南約500mに位置し布留遺跡に隣接というか属しているといってよい。つまり石上神宮の神域でもろに 物部 氏だ。
    次いで元稲荷古墳(京都府向日市)、ここも有名だが特殊器台形埴輪が出土しおり向日神社の神域で大歳神を祀る、この大歳神も饒速日命と同一とされている。
    もちろん、一部の例だけを出して結論を得ようとするのは危険だろうが、1800年程が経過して多くのものが雲散霧消している今、ある一定の規則性があることを見過ごさない感覚の方が重要なのではないだろうか?

    出雲の前方後方墳

    山代二子塚古墳(地下展示)出雲意宇郡 物部 氏と 前方後方墳

    山代二子塚古墳(地下展示)出雲意宇郡

    出雲も前方後方墳の多いところだ。前方後円墳よりも大きさ数において目立つことから出雲が前方後方墳の発祥と考える人も居られるようだ。写真は出雲最大の山代二子塚(墳長94メートル、6世紀中葉、出雲最大)の地下である。このほか「八雲立つ風土記の丘」にある岡田山1号墳などが有名だがその多くが松江近郊エリアつまり出雲意宇郡に集中している。意宇郡とは出雲国庁が置かれたところでその中心的神社は私が前項で 物部 ではないかと考えている「神魂神社」なのだ。

    このように前方後方墳が一定以上の率で物部所縁の地に存在することから、「 物部 氏と前方後方墳の直接的関係が強く疑われる」というのが今の私の考えである。

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    大田田根子 ってだれ?物部氏についての考察 その3 

    大田田根子 とは 変わった 名前 だな と思う。崇神天皇記 に 登場 す 大神 (おおみわ) 神社 の 初代 神官 である。

    崇神記によれば崇神5・6年に疫病が流行り、死亡するものが多く、百姓は流離・反逆し、世情が不安定となった。天皇は御殿に祀っていた天照大神と倭大国魂の二神を、豊鍬入姫命(とよすきいりびめ;崇神の娘)と渟名城入姫(ぬなきいりびめ;崇神の娘)とを御杖代として別々に祀ったがうまくいかなかった。神浅茅原で倭迹迹日百襲姫命が神懸かり、大物主神を祀るようにとのお告げを得、さらに、天皇と臣下が「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」という同じ夢を見たという。天皇は広く探させ、茅渟県の陶邑に大田田根子を見つけた。天皇が素生を聞かれると、大田田根子は「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です。」と答えている。また別に「奇日方天日方武茅渟祗の女」とも言われているとある。大田田根子を祭主として大物主神を祀り、長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ることで、疫病ははじめて収まり、国内は鎮まった。そして、大田田根子は三輪君らの先祖であるとしている。

     なるほど、いろいろなエピソードが含まれているけれど、多少ほかのエピソードと時間軸的には多層化してしまうのでそのあたりはスルーして考えたい。つまりは大田田根子は茅渟県の陶邑出身で大物主の血筋であると紹介されている。また古事記では河内の美努村(大阪府八尾市近辺)出身となっているが、いずれの場所も物部所縁の土地だと私は考えている。なぜなら河内は弥生時代後期に大変発達したエリアで後に全国展開する庄内式土器の発祥地とされているのだ。特殊器台を物部祭祀の象徴とするのが素直な議論だと思うが、当然日常の土器生産と特殊器台は同一技術集団の仕事と考える。此の地「河内の美努村」は土器の生産地だったわけだが前にも述べた通りここに吉備の土器が現物ととものその最高の技術が流入しているのだ。その中にはあの吉備特殊器台も含まれている。また美努村はミノと発音し吉備の御野郡(現岡山市)と同じ名であるのも興味深い。

    泉北須恵器資料館 須恵器登窯跡

    泉北須恵器資料館 須恵器登窯跡

    また、一方の茅渟県だが大阪南部の泉北ニュータウン内にある古墳時代の須恵器窯跡群が最古最大とされており、ここが茅渟県の陶邑と考えられている。ただ時代的には崇神とはあわないので、日本書記が編集された時代の錯誤である可能性もおおいにある。いずれにしても大田田根子は土器の邑出身、つまり物部なのではないのか?というのがこの章の論点である。
     大物主が謎の存在であることは古代史趣味の方であれば周知のことと思うが、額面どおり大国主の別神格であると考えるには疑問が多い。原田常治氏の大物主=饒速日命論は大変ショッキングではあるものの、櫛甕魂(くしみかたま)と櫛玉(くしたま)の音の類似が根拠というのが残念な感じである。しかし多くの方が大物主=饒速日命同一論に共感するのは、それぞれに思い当たる所があるからだろう。大田田根子が物部だとすれば、物部縁の大物主=饒速日の祭主になるというのも頷ける話なのだ。

    大田田根子はどう読む?

    「おおたたねこ」はてっきり「おおた:たねこ」という女性だと思っていた、しかしどうも違うようだ。どうやら「おお:たた:ねこ」ということらしい、しかも男性?となると後に登場する古事記の編集者、太安万侶や多氏などと同じ「おお:し」ということである。また、大田という地名「おお:の:た」これで気になることがある。かの纒向遺跡、言うまでもなく邪馬台国の女王卑弥呼の都跡と言われているが、これが当初は大田遺跡と呼ばれていた。なぜなら大田という字から発見発掘が始まったからだ。まあ大神神社のエリア内なので当たり前の名前といえばそれまでだけど、これが物部だと考えれば納得できる。写真は石見型楯形埴輪と言われる埴輪で、円筒埴輪の全面にこの奇妙な楯が張り付いている形でこの近くの石見遺跡の出土である。この楯と思わいれる部分には特殊器台と同様に縄のような曲線と綾杉紋で呪術的な模様が施されている。この発見は石見(いわみ)という場所からなのだが、ここでこの二つの地名から気がついた事がある。「石見、大田」といえば島根(石見国)の大田市、言わずとしれた物部神社のある物部縁の濃いところだ!石見と出雲は敵対関係にあり、私が物部出雲論を否定する一つの根拠でもある。さらに申せば出雲の東のエリアは意宇郡(おう:おお?)で西の石見と挟み撃ちの形だ。
    前項でも述べた通り、意宇郡は特別なエリアであると感じる、特に後の国庁ができる現在の六所神社から神魂神社にいたる大庭(おおば)には巨大な前方後方墳;二子塚などの大庭古墳群があり並々ならぬ地区だ。この中心施設である神魂神社が出雲國造家所縁の地であることも考えあわせると出雲の謎も少しずつ解けてくるような予感がする。つまり出雲国造家(千家、北島両家)が2000年もの間「杵築大社」で大国主を守ってきたという事実からどうしても忘れがちになるのだが、租神「天の穂日」はまぎれもなく天孫の系譜なのだ。

    多太神社

    多太神社
    松江市秋鹿町(あいか)岡本

    先日のGWに訪れた出雲で思わぬ収穫があったので少しここで触れておこう。連休のまっただ中なので出雲大社を避けるようにめぼしい神社を巡っていて長浜神社に到着した。宮司さんがいらっしゃったので少しお話をしていると珍しい名前を聞いた、衝桙等乎而留比古命;つきほことおるひこである。この神は出雲風土記に登場する須佐之男命の子で写真の多太神社に祀られている。この時の話題はこの珍しい名の神様が吉備の神社にも祀られていて出雲と吉備の関係に大きなヒントをもたらすのではということだった。そのことはまた後にするとして、ここで問題にしたいのはこの神社の名前である。風土記には「秋鹿郡多太郷」となっており、読みは「たた」である。同名の他地域の神社をググってみると何社か畿内にヒットするがなんとこれが「大田田根子」を祀っているのだ。これを素直に読めば、衝桙等乎而留=大田田根子は同一神でしかも須佐之男命の子ということである。ちなみに出雲風土記では須佐之男命は神須佐乃烏命と表わされており、しかも従来のような大国主との血縁はないことになっている。

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    野見宿禰 考 物部 氏についての考察 2

    土師部の祖 野見宿禰 考 2012 Jan.21

    前項ログでわたしは、『相撲の元祖「 野見宿禰 」は物部氏ではないのか』という私見を記した。このような考え方はNet空間広しといえどもだれもふれていない。つまり「ありえない話」の類いということだろうが少しまとめてみよう。

    元祖横綱 野見宿禰

    nomi_sukune.jpg『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこと、次のように伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいた。それを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させ見つけだされたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲が催された。結果は 野見宿禰 の勝ち、當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、 野見宿禰 に与えられた。 野見宿禰 はそのままとどまって天皇に仕えたという。

    この相撲が行われたとされるのが桜井市の山辺にある穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社に向かうすぐ手前の相撲神社である。なんだか荒れて原っぱのようにもみえるが土俵のあとも薄らみえた。野見宿禰説明板に「昭和37年10月6日、大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主にニ横綱(大鵬、柏戸)五大関(琴ヶ浜、北葉山、栃ノ海、佐田ノ山、栃光)をはじめ、幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ、この境内のカタケヤシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納された。」と記されている。

    手数入り(でずいり)とは横綱土俵入りのこと、オールドファンには懐かしい名前が並んでいるが、ここでのポイントは相撲神社ではなく大兵主神社に奉納したことで、この大兵主とは天のヒボコである。つまり 野見宿禰 を祭神とする相撲神社に奉納したのではなく天のヒボコに奉納したということだ。そして、左写真に写っている(小さくて読めない!)が 野見宿禰 は天穂日命の十四世とされている。

    埴輪の創始者 野見宿禰

    垂仁天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられたとき、身狭の築坂に陵を築き葬った。このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。その後、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。そのとき、野見宿禰は埴土(はにつち)で人や馬を形どった土物(はに)を作り生きた人に替えて陵墓に立てることを献策した。天皇は喜び、野見宿禰に土物を作ることを命じた。野見宿禰は出雲から土部(はじべ)百人を呼んで、土物を作り日葉酢媛命の墓にたてた。その功績により、野見宿禰は土師の職に任じられると同時に、本姓を改めて土部臣と称した。野見宿禰の後裔である土部連が天皇一族の葬儀を司るようになったのは、このためである。(野見宿禰記事引用先:DonPanchoさんHP)

    十四代前の祖先 「天穂日命(あめのほひ)」

    Wikipediaより引用

    アメノホヒは、日本神話に登場する男神。天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリ(別名:建比良鳥命)および剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。

    神魂神社ということで、現在の出雲大社宮司家で出雲国造(コクソウ)家の千家・北島両家の祖先で意宇(おう)郡の神魂(かもす)神社を創建したということなのだ。この神社には野見宿禰が、巨石を相手に修行をしたという伝承があり彼が此の付近(意宇郷)の出身者であることを伺わせている。

    さて『出雲国造神賀詞』では天穂日命は子のアメノヒナドリ(別名:建比良鳥命)および剣の神フツヌシとともに地上を平定した、ということだが剣の神”経津主神”(フツヌシ)とは布都御魂で物部と考えてよい。吉田大洋氏著の「謎の出雲帝国」に登場する「語り部の富氏」によれば「吉備勢力(ひぼこ族と物部族の同盟軍)に出雲民族は殲滅された。」と語り、また神魂神社宮司家の「秋上氏」は自らを物部の系譜とし、出雲進駐の前線基地が意宇郡の神魂神社であるとしている。(多分に吉田氏の論も加味されている!?)

    【崇神紀の出雲神宝事件】

    吉備と物部とが協同的に出雲に関わる事件、日本書紀崇神六十年条の出雲神宝事件にも触れておきたい。大和は矢田部造の武諸隅(たけもろずみ)(矢田部は物部氏)を出雲に遣わして、その神宝の奉献を求める。この時、神宝を管理していた出雲振根(いずもふるね)は筑紫に出掛けて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が神宝を奉献する。筑紫から帰ってこれを知った出雲振根は怒って飯入根を殺す。飯入根の弟や子らが、このことを大和に訴えたので、大和は吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を派遣して出雲振根を誅殺する。更に、出雲の神宝については、垂仁二十六年条にも、物部十千根(もののべのとうちね)に、神宝を調査させる話が出てくる。(記事引用先:金谷さんHP)

    この話のポイントは「物部と吉備が協力的関係で出雲に影響力を及ぼす」ところと「弟の飯入根(いいいりね)がすんなり従い、それを兄である出雲振根(いずもふるね)が弟を殺すとその弟や子らが、大和に訴え、吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)が派遣され出雲振根を誅殺する。」という部分で物部と吉備の強い関係とともにどうも絆の薄い兄弟関係だなあという点である。

    私はこう思う、振根と弟の飯入根とはともに天穂日命の系譜とされるが、弟の方は意宇の物部系ではなかったかと。そうすればこの不可解な話も理解できる。

    まとめ

    私は出雲に進駐した吉備物部がこの意宇郡に拠点を置いたのだ考えている。その証拠といえるかどうか、このエリアには前方後方墳が多く存在するが、吉備に存在する代表的なそれは「湯迫車塚、一丁ぐろ」で共に物部系の色がとても濃い。その地区の出身者として野見宿禰が登場するのであるから、彼が物部であり祭祀を司る部族として埴輪の創始者の名誉を受けたのだと考えている。さて次のログではなぜ前方後方墳が物部なのか?という論証を通じて物部の謎をさらに解き明かして行きたいと思う。

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    物部氏 についての考察 1

    謎の 物部氏 2012 Jan.18

    平成も24年辰年を迎えた。わたしは巳年生まれなのでいよいよ来年還暦である。なかなか書物が頭に入らないなどと弱音を吐いては諸先輩がたに申し訳がない。さて、邪馬台国吉備説を唱えだして以来ますますその確信を深めてきたが、今回は謎の 物部氏 についてしばらく追いかけてきたので少しまとめてみたい。

    物部氏 (もののべうじ)は河内国の哮峰(たけるがみね)(現・大阪府交野市か?)にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命)を祖先と伝えられる氏族である。石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、etc.は物部氏の氏神であり、また大和朝廷の武器庫であった。とされているというところが普通の説明だろうか。しかし石上神宮でおこなわれる鎮魂祭(みたまふり)では「ひふみよいむなやこと」「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と唱えられる。これは物部の呪術なのだそうだが、これが宮中儀式に引き継がれているということだ。物部の”物(もの)”といえば”もののけ”も”もの”と理解するのが最も素直だと思う、だとすれば古代倭国における祭祀の担当部族と考えるのが妥当だ。

    物部氏 tenri_web_033.jpg写真は
    物部氏の 郷とも言うべき天理の布留遺跡の上に立つ天理参考館で、右におそろしく暗いイメージでたっているのは私です。写っているのはここで発見された埴輪などの祭祀土器で当時(古墳時代)の場面を再現している。つまり 物部氏 が埴輪を使って祭祀を執り行っていたというわけだ。となれば 物部氏 と吉備 特殊器台の関係に思いをいたすのは当然の成り行きだろう。

    吉備特殊器台が発見された場所(エリア)といえば「吉備・出雲・纏向」だが、それ以外にとても重要な場所で発見されている、それは河内(八尾)である。この八尾の地も物部の本拠地とされている。その八尾市域から特殊器台が東郷遺跡(向木見型)、萱振遺跡〔かやふり〕・小阪合〔こざかあい〕遺跡から(宮山型)と出土している。河内平野(特に八尾市域)は当時、北に河内湖、 それに注ぐ「小阪合分流路」「久宝寺分流路」と呼ばれる大河川があり、この河川の上流域は大和盆地南東部の巻向遺跡に繋がっており、河内平野では、これまでに特殊器台形埴輪を用いた古墳が無いため、これらの遺物は大和に運ぶ際に破損したため河内に残されたものと理解されている。

    つまり物部氏が特殊器台を携えて吉備⇒河内⇒纏向と移動してきたと見えるがいかがだろうか?歴史著作家の関裕二氏がその著作『物部氏の正体』で物部=吉備であると結論づけているが、それもこれも論拠の最大要点はこの部分だ。

    doki-2.jpgさて左の写真は卑弥呼の時代の土器である。左から「吉備型甕」「庄内式土器」「布留式土器」で主な生産地は特殊器台と同じ”吉備?河内?天理”と考えてよい。これらは生活用具で調理に使用されたと思われるがこの特徴がその薄さで当時のハイテクであり、その技術が吉備→河内→天理と伝搬していった。さらにそれらは全国にひろがっていき各地で発見されることとなる。もちろん土器はどこでもつくられていたのだろうからそんな単純な関係ではないというご意見もあろうかとは思うが「へらけずり」による薄作りという点では技術が伝わったと考える。

    古代において土器制作を業とする人々を土師部という、この弥生末期に部民制度はなかったと思うがその先鞭を着けた職能集団が存在しただろう。垂仁天皇紀に登場する横綱の元祖「野見宿禰」が埴輪の発案者で土師部の祖とされている。この人が出雲の人で出雲では埴輪の根源は見当たらず、また時代もすこしずれているということで「土師部の祖」というのは何かのまちがいだと考えられている。しかし私は彼こそが物部だと思っている、がその考察は事項に譲ることにしよう。

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    四隅突出 型弥生墳丘墓 中国山地によすみを訪ねる

    四隅突出 型弥生墳丘墓 行脚

    朝 はやく に 岡山 を 出発 して 福山、 世羅 を 経由 し 三次 に 到着 した。 広島県 三次市 には「 三次 風土記 の 丘公園 」という 古墳群 に 博物館 が 併設 された 施設 がある。 ここ 三次 では 弥生時代 出雲 から 北陸 にかけて 現れる「 四隅突出 型 弥生 墳丘墓 」の 最初期型 として 陣山遺跡 などが 発掘 されている。そのうちの矢谷(やだに)遺跡は三次市の南側の標高230mの丘陵にあり、1977~78年度の三次工業団地造成事業に伴う発掘調査で発見された。

    出雲弥生の森博物館 四隅突出 墓模型

    形は、四隅突出型墳丘墓を二つ合体したような特異な物である。周囲に溝をめぐらせて際立たせたもので、全長18.5m、溝の部分まで含めると22.6mの規模を持ち、中国山地の弥生時代後期の墳丘墓としては最大規模を誇っているのだが、特筆すべきはかなり大型の吉備特殊器台がでているのだ。残念ながら、現場をみることができなかったが、整備された古墳公園を満喫した後、次の目的地へと向かった。するとすぐ近くに変わった名前の神社を発見した。「廻神神社(艮神社)」というのだが、なんと御祭神が吉備津彦であった、ここらも古代吉備国のエリアであることを思い出した。つまり特殊器台がでてきて当然ということである!?参拝&記念撮影の後一路、出雲市一の谷にある最大のよすみである西谷墳丘墓のある「弥生の森博物館」へと向かった。

    最後は「西谷3号墳」です。出雲商業のすぐ裏で野球部の声がします。

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    探検!古代 須恵器 窯跡 を求めて

    古代 須恵器 窯跡 を求めて美和神社を出発! 2011 Feb.20

    須恵器とは5世紀前半(古墳時代)に朝鮮半島南東部の伽耶地方から流入した新技術の陶器でそれまでの土師器から飛躍的に性能を進化させた。定説としては、大阪南部の陶邑(すえむら)窯跡群が、5世紀中頃初期最大のもので、6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られ、この岡山長船の須恵地区の窯跡群はその一つであると考えらる。しかし現在はそれより早い時期と思われる窯跡として北部九州(朝倉窯跡群etc.)、岡山県奥ケ谷窯跡、香川県三郎池西岸窯跡、大阪府吹田32号窯跡などが発見され、5世紀前半同時並行的に技術集団の流入があったと考えられている。現代の備前焼の元である。

    kamaato_web_G_1備前焼作家、橋本勘介氏をガイド役にMasters Member A&A氏と県立大セラミッククラスの女子大生を加えて計7名、長船は西須恵広高山の頂上にある美和神社に到着、早速お参りをした。御祭神は大物主命で牛窓の語源ともいわれるエピソード(住吉大神の牛転び)の主人公でもある神功皇后が潮待ちのときに誤って海に転落した愛馬白鷹が犀崎(才崎)に上陸し、北に向かって走り須恵の山にたどり着き息絶えた、故にこの宮山を白鷹山(広高山のこと)と名付けたという伝説の残るお宮である。すばらしい展望の神社前駐車場から100mほど道を戻ると、さっそく本来のご神体である磐座があり一同お参り、すぐそばに三角点があるのでここが頂上ということらしい。

    さらに下って行くとアスファルト道路に交差する形で古道(西須恵?尻海)がある。尻海方面に山道を下りてゆくとすぐにサザラシ一号墳への分岐、ここを古墳にも行かず南へ山を下っていく。しばらく行き谷筋になると沢が現る、石を積んだ人工物が沢の堰のような形で水がたまるようになっていた。そして確か三つ目だったと思うがさらにしっかりした石積みがあり、少しではあるが水が溜まっている、これがどうやら「美和ノ井」であるらしい。

    kamaato_web_008美和とは神の意味であるから、この水源は「神の泉」ということである。現在は多くの雑木が茂ってはいるが、古代においてはきっときれいに整備されていて、やや緩やかなV字の傾斜に挟まれたこの沢で重要な神事が行われていたのだと想像する。

    この沢の周りの傾斜地に複数の窯跡が存在するらしい、すでに確信があるのだろう勘介氏がすこし沢の中を進むとついに「ありました!」と土器(かわらけ)を一枚われわれに見せてくれた。みんな勇んでそこらにある枝のほどよいサイズのものをみつけ、ほとんど流れのない湿った沢の泥と石をほじくりかえした、するとさっそくA氏が次のかけらを発見した。どうやら窯のそばに捨てられた土器の破片が千年の時を越えて流されて沢のあたりにあるのだ。しかし、そんなに次々と発見されるわけでもなく、やっとみつかった物も黒く染まってしまっている。

    須恵器 窯跡我々が沢と格闘している間に勘介氏は傾斜を登って上の方を探していた。「こっちにきてくださ?い」という声に大きな期待を胸に抱いて道なき道を薮こぎしながら十数メートル、全員で登った。そこには探すまでもなく多くの土器の破片が散乱していた、まさしく土器捨て場であった。形の残っているものはない、ことごとく割られた破片である、つまり捨てるために割るということらしい。捨て場というのは窯のそばだそうなので近くに窯跡があるかもしれない、みんなでそこらをさがしてみた。するとすこし登ったところに右写真の遺構を発見、どうやら窯の後部ということらしい。ここのあたりで皆最後?のかけら探しに望んだが、私はこの上がやけに傾斜が楽になって木もまばらなのが気になって上へ上へと登っていった。後ろをみると皆の姿は見えなくなり道に迷いそうな感じだが、先がますます歩き易くなってきたので止まる気になれず、あとすこしあとすこしと歩を進める。すると見覚えのある巨大な石の姿が見えてきた。なんとそれは前回の訪問のときにきた「サザラシ一号墳」の石室であった、これで位置関係がはっきりした。

    このあとすこし沢を下ってみたが、やや大きめの石堤のところで道が途絶えたので今日のところはここまでということにして、スーパーのレジ袋二つに入った「かわらけ」を戦利品に帰路についた。勘介氏のお宅にもどり奥様に煎れていただいたお茶を頂戴して、かわらけを皆で分配した、学生さんは資料になるだろうとほとんどをあげたけど荷物になったっだろうか?そして登り窯などを見学させていただき本日の探検隊は楽しく解散した。

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    大避神社 (おおさけ) 謎の秦氏ゆかりの地を訪ねる

    「兜率天の巡礼」の舞台、赤穂 大避神社 は秦河勝を祀る 2011 Jan.18

    司馬遼太郎のデビュー作「ペルシャの幻術師」表題の短編集に収録された「兜率天の巡礼」という話には秦氏に関して大変興味深い内容が含まれている。以下、磯貝勝太郎氏の解説の一部を引用する。

    昭和24年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会い、その紳士は司馬の事を知らずに「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。当時、ザビエルの日本上陸400周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。

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    司馬氏が影響を受けたのは仏教史学者で大親日家の英国のエリザベス・ゴードン夫人が唱えた「景教=秦氏」論だろう。彼女は、高野山(真言宗)と景教のつながりを信じて1911年に中国西安の景教碑の複製を寄贈し、その横にゴードン夫人の墓がある。京都の太秦には秦河勝建立とされる広隆寺が秦氏の氏寺とされ、その境内には大酒神社があった(現在は近所)。ゴードン夫人によればこの謎の技術集団が最初に乗り込んだ本貫地がこの赤穂市坂越でありその印としてこの大避神社が現存するということである。上写真の下部に見える額は元宮内庁式部職楽部岡氏の奉納で樂祖秦河勝の後裔と自称されているのが興味深い。(楽部とは、宮中の雅楽の演奏・演舞を担当、楽部の首席楽長、楽長、楽長補、楽師は重要無形文化財保持者に認定される。かつては、東儀氏、上氏、園氏等の世襲職であった。)

    景教と秦氏の考察は次項に譲るとして、この山の中腹に妙見寺という寺があり、そこになぜか、岡山にゆかりの深い児島高徳の墓所があった。児島高徳墓所南北朝時代の軍記「太平記」に登場する児島の林出身の武将で岡山では「院庄の忠義桜」のエピソードでおなじみの人である。しかし「太平記」しか記載がないとされて児島高徳の実在性を疑う議論もあるという謎の人物である。由緒によれば熊山の戦いで深手を負った高徳はここ坂越に軍を構えていた「官軍」に身をよせて結局ここで亡くなったということである。

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    喜川 法善寺の浪花割烹 

    大阪の名店「 喜川 」にいってみた! 2010 Dec.21

    20日の夜、岡山駅のぞみに乗り大阪はキタのライブハウスMister Kellyへ向かった、「Atsuko Nishida Jazz Live」である。7時から11時すぎまで都会の夜をひさびさに過ごし、中之島のHOTELに宿をとった。

    喜川翌日はゆっくりとチェックアウトして、ミナミゆきの地下鉄に乗り込む。今回の大阪のもうひとつの目的は浪花の名店「 喜川 」訪問である。昼食の予約の時間までしばらくあるので、道具屋筋やら黒門市場などをぶらぶらしミニ観光で過ごす。驚いたことに観光客らしい人の7?8割が中国人であった、確かめてはいないが見ればわかる。

    時間も来たので、道頓堀から少し戻って法善寺横町に入りすぐの「大阪割烹 喜川 」の暖簾をくぐる、やや和洋折衷モダンな戸の前に立ったその瞬間、すっとそれが開いて内側から店の女性が現れた。予約の旨を告げると「お待ちしてました、どぉ?ぞ」と案内される、3階建ての1階がカウンターで12席、奥から2番目ほどの席にコートを預けて座った。

    30年ほど前、大阪のグルマンな友人が「そりゃあ今はキガワやで!」と熱く語っていたことを思いだす。「喜川」は上野修三氏が大阪の新しい割烹を目指し店を構えてから約40年、今は息子の修氏に店を任せて、執筆活動やら指導に専念しているという。さっそく白磁杯に入ったスープ?が運ばれ、仲居の女性が適度な口調、そうほんとに適切な距離感と温度でもってその料理の説明をしてくれた。写真はその後運ばれた「今日の昼食コース」の総てで、それぞれによく仕事が施され、でしゃばったものが何もないバランスのとれた食事であった。

    喜川通人によれば、他の名店との比較で「和洋折衷メニュー」に不満のむきもあるようだが、僕は経験もなくそこはわからない。しかし、この店に通底するのは「いごごちのよさ」を演出する気配りにあると感じる。暫くして主人の修氏らしき人が現れ挨拶にこられた。そののち板場に入り、板さんになにやら指示をする、その雰囲気がいかにも柔らかいのだ。よく「内輪には厳しくしております!」的な空気を醸す主人はいるが、ここは違う。他のお客さんもそれぞれで、家族、夫婦、奥様グループ、そして男性一人のグルマンと色々だったがみんな楽しそうであった。なにしろこんだけ写真を撮る事にほとんど躊躇を覚えない空気感である、「どうぞ、お好きにお過ごしください」ということなのだ。

    もし一つだけ希望を述べるなら、道具類(掛け物や陶芸)に見せ場があればと思うが、これも「あまりでしゃばらず」という風情ともいえる。そしてお値段もお昼のコースであることもあるが、これだけのものを頂いたうえではいかにもリーズナブルだと思う。目の前では、夜の仕込みだろうか、60cm超の巨大な甘鯛が丁寧に処理されていた。家内が「あれ、”ぐじ”じゃない?」という、僕はこんなでかくて白っぽい甘鯛などみたことがなかったので「ちがうだろ!」と答える。我慢しきれず尋ねると「ぐじの白で最高級物」という答え、ぐじに「白、赤、黄」とあり白が最高ということも初めて知った。バランスの昼コースに対して夜メニューには「ダイナミズム」が加わるのだと思う、店を出て藤島桓夫でおなじみの「お不動さん」に水を掛けながら又ここに来られるように祈った。

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    思い立ったが吉日! 「 韓竃神社 」へ爆走

    出雲「 韓竃 (からかま)神社」は今人気の秘境スポット 2010 Dec.14

    韓竃神社
    昨夜の天気予報をみて急遽「出雲」を訪ねる気になった。岡山を10時に出て約200kmの行程だが昨今の高速料金割引のおかげで気軽に動ける。12時半、昼飯に松江にたちより観光名店「八雲庵」にて「かもなんばん」をいただいた、味もしっかり、駐車場、庭付きのよい店である。ここから宍道湖の北岸を一路「横縦断」して「十六島(ウップルイ)」方面へ向かう。まずは「十六島(ウップルイ)」変わった名である、アイヌ語?朝鮮語?など諸説あるようだがはっきりとしない、そこがとてもよい。

    韓竃神社 十六島湾が現れる

    今日の島根半島は天候不安定で晴れたり雨が降ったりそして風で海には大きな波がたっていた。垂水神社から川沿いを南上するが、この川名が「唐川川」である。なんだそりゃって感じだがそのとおりだから仕方ない。鰐淵小学校を唐川方面へゆくと細い道が次第に高度を上げてゆくが「 韓竃神社 」へのサイン看板が的確にあるので迷わず駐車場に到着した。

    韓竃神社
    ここから徒歩800mとなっている、林道入口に設置された案内パンフをもらい歩き始める。さっきまで激しく降っていた雨がやみ少し明るくなってきた、てっきり「晴れ」と思っていたので雨具(レインスーツ)もなく、ききしにまさる難所と聞いているので傘も持って行けない。林道は山からの雨を集めておおきな音をたてながら激しく流れる沢に沿って登っている、500mほどで写真の参道入口の鳥居に到着した。

    ここから急登がつづくが細いながらもよく整備された石段ばかりなので、濡れていながらも安心して登れた。参道口から高度差で200mくらいだろうか、ついに各メディアで紹介されているこの岩戸が現れた。まあ、100kgくらいの人までだったら楽に通れるとは思うが「岩に体を擦りながら通る」ことは避けられないのできれいな服はやめたほうがよい。

    この裂け目を抜けるといよいよ目の前に社が現れる、かなり急な場所にあるため、石組のその境内は極めて狭い、ぎりぎりまでさがってやっと写真に収まった。雨模様のウィークデイでありながら3人の方とであった、やはりかなりの人気である。

    karakama_web_012
    案内文などの由緒によれば

    鎮座地 出雲市唐川町字後野408番地
    祭神 素盞嗚尊
    例大祭 十一月三日
    出雲国風土記(七三三年)には韓?社 延喜式神名帳(九二七年)には 韓竈神社 と記されている。江戸時代には、「智那尾権現(ちおごんげん)」と呼ばれていた。社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされている。即ちこれは祭神の素蓋嗚命が御子神と共に新羅に渡られ我が国に「植林法」を伝えられると共に「鉄器文化」を開拓されたと伝えられていることと、関係があろう。又当社より奥部の北山山系が古くから産銅地帯といわれ金掘り地区の地名や自然銅、野タタラ跡、などが見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。「雲陽誌」(一七一七年)によると、当社は素蓋嗚命を祀るとして古老伝に「素蓋嗚命が乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又 岩船のつづきに周二丈余り高さ六間ほどの丸き立岩ありこれを「帆柱石」という。社への入口は横一尺五寸ばかり高さ八尺ほどの岩穴となっており奥の方まで二間ばかりありこれが社までの通路となっている」と記されている。

    「唐川」という地名から素直に考えれば、朝鮮半島に出自を持つ人たちが住んでいたことに疑いはない。岡山市内にも「辛川」「辛香」などが見られるが皆、朝鮮系とか新羅系と考えられる。ここに「素盞嗚尊」が祀られているのは極自然であるが、「素盞嗚尊」信仰が最も色濃いのが吉備であることは留意しておきたい。青銅器の文化圏の中心である「出雲」に銅が出たことに何の違和感もないが、鉄器文化の開拓となれば「 韓竃神社 」は吉備と出雲が連合した時代の残滓といえるかもしれない。

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