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物部氏 についての考察 1

謎の 物部氏 2012 Jan.18

平成も24年辰年を迎えた。わたしは巳年生まれなのでいよいよ来年還暦である。なかなか書物が頭に入らないなどと弱音を吐いては諸先輩がたに申し訳がない。さて、邪馬台国吉備説を唱えだして以来ますますその確信を深めてきたが、今回は謎の 物部氏 についてしばらく追いかけてきたので少しまとめてみたい。

物部氏 (もののべうじ)は河内国の哮峰(たけるがみね)(現・大阪府交野市か?)にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命)を祖先と伝えられる氏族である。石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、etc.は物部氏の氏神であり、また大和朝廷の武器庫であった。とされているというところが普通の説明だろうか。しかし石上神宮でおこなわれる鎮魂祭(みたまふり)では「ひふみよいむなやこと」「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と唱えられる。これは物部の呪術なのだそうだが、これが宮中儀式に引き継がれているということだ。物部の”物(もの)”といえば”もののけ”も”もの”と理解するのが最も素直だと思う、だとすれば古代倭国における祭祀の担当部族と考えるのが妥当だ。

物部氏 tenri_web_033.jpg写真は
物部氏の 郷とも言うべき天理の布留遺跡の上に立つ天理参考館で、右におそろしく暗いイメージでたっているのは私です。写っているのはここで発見された埴輪などの祭祀土器で当時(古墳時代)の場面を再現している。つまり 物部氏 が埴輪を使って祭祀を執り行っていたというわけだ。となれば 物部氏 と吉備 特殊器台の関係に思いをいたすのは当然の成り行きだろう。

吉備特殊器台が発見された場所(エリア)といえば「吉備・出雲・纏向」だが、それ以外にとても重要な場所で発見されている、それは河内(八尾)である。この八尾の地も物部の本拠地とされている。その八尾市域から特殊器台が東郷遺跡(向木見型)、萱振遺跡〔かやふり〕・小阪合〔こざかあい〕遺跡から(宮山型)と出土している。河内平野(特に八尾市域)は当時、北に河内湖、 それに注ぐ「小阪合分流路」「久宝寺分流路」と呼ばれる大河川があり、この河川の上流域は大和盆地南東部の巻向遺跡に繋がっており、河内平野では、これまでに特殊器台形埴輪を用いた古墳が無いため、これらの遺物は大和に運ぶ際に破損したため河内に残されたものと理解されている。

つまり物部氏が特殊器台を携えて吉備⇒河内⇒纏向と移動してきたと見えるがいかがだろうか?歴史著作家の関裕二氏がその著作『物部氏の正体』で物部=吉備であると結論づけているが、それもこれも論拠の最大要点はこの部分だ。

doki-2.jpgさて左の写真は卑弥呼の時代の土器である。左から「吉備型甕」「庄内式土器」「布留式土器」で主な生産地は特殊器台と同じ”吉備?河内?天理”と考えてよい。これらは生活用具で調理に使用されたと思われるがこの特徴がその薄さで当時のハイテクであり、その技術が吉備→河内→天理と伝搬していった。さらにそれらは全国にひろがっていき各地で発見されることとなる。もちろん土器はどこでもつくられていたのだろうからそんな単純な関係ではないというご意見もあろうかとは思うが「へらけずり」による薄作りという点では技術が伝わったと考える。

古代において土器制作を業とする人々を土師部という、この弥生末期に部民制度はなかったと思うがその先鞭を着けた職能集団が存在しただろう。垂仁天皇紀に登場する横綱の元祖「野見宿禰」が埴輪の発案者で土師部の祖とされている。この人が出雲の人で出雲では埴輪の根源は見当たらず、また時代もすこしずれているということで「土師部の祖」というのは何かのまちがいだと考えられている。しかし私は彼こそが物部だと思っている、がその考察は事項に譲ることにしよう。