造山古墳 に周濠発見

造山古墳 岡大新納(にいろ)研究室説明会に行ってみた! 2010 20 March

造山古墳 後円部第二トレンチ

造山古墳 :周濠の存在確実に 堤跡の層発見--岡山大調査 /岡山(毎日JPより抜粋)

岡山大考古学研究室の新納(にいろ)泉教授(考古学)は17日、全国4位の規模の前方後円墳「造山古墳」(北区新庄下)の周辺発掘調査で、周濠(しゅうごう)(堀)の存在がほぼ確実になったと発表した。濠や外側の堤の跡などが確認された。畿内の大王に匹敵する権力者が埋葬されている可能性が考えられるという。

濠の幅は後円部で約20メートル、前方部では約26・5メートルとみられ、周堤跡は幅約8メートル、高さ約35センチだった。堤はさらに高かった可能性があるという。造山古墳の周濠の存在は50年以上議論されていたが、新納教授は「今回の発見で天皇陵と比べてそん色のない濠があることが分かった」としている。

上記のような報道が新聞各紙各メディアで大々的にされ、現地説明会がおこなわれるというので、本日さっそく行ってみた。右上の写真は古墳後円部の右45度のあたりを掘ったトレンチといわれる穴ぼこである。線がみえるのは違う土の層がわかりやすいように引いたもので、右から斜めに下っている線が堀の底で堤が盛り土で造られているのだそうだ。この盛り土の堤も削られている可能性もあるが、思ったより濠が浅いことがわかる。第三位の石津ヶ丘古墳(履中陵古墳,ミサンザイ古墳)(いしづがおかこふん:大阪府堺市石津ケ丘)と時代も作りもよく似ているが濠の深さだけが違うらしい。また、今回同じく調査された前方部の真下の位置の周濠跡と底の高さの差が3.7mあるので、濠は何分割かされていたようだ。

岡大新納教授

そこに、テレビでみた人が立っていた、新納教授だ。さっそく、お話をうかがった。「一位から三位までの古墳と似ているということは同族のものでは?」という質問に三位のミサンザイと築造時期がほとんど同時期ではないかとおもわれるので、別の集団のものと考えられる。ただどちらが早いかというと前方部がやや低い造山ではないかというご見解で、これからの調査で円筒埴輪の状態のよい資料を見つけて年代をつめてゆきたいということだそうだ。

「では、大阪の巨大古墳とそれ以前の奈良のものとの連続性は?」という質問に先生は「連続性は少なく別の勢力ではないか」という見解をしめされた。

大変貴重なお話であった、わたしはそれでも造山と大阪堺の巨大古墳は同じ勢力のものである可能性は十分にあると思う。この数世代前の崇神天皇の時期に倭が統一されたというのにこれみよがしに日本一でかい古墳を造る勢力が国内に並立していたという方が矛盾している。この中国色の強い勢力が九州から移動し吉備を経由して大阪平野に入り、王朝の交代がおこなわれたと考えるのだが、いかがだろうか。その意味では造山が風水観に従った王陵なので、第一位から三位までの巨大古墳の風水観との関連が実証されればより裏づけられると思う

ちなみに「アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、明治41年(1908 年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。
* 鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。
* 刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は南朝鮮の新羅や任那の古墳から出土している。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)

というわけで、青龍、白虎、玄武、朱雀が登場するのは極めて風水的だが、これだけで風水による造営と決め付けるには私の知識がたりない、これから勉強していこうと思う。

カテゴリー: 邪馬台国 パーマリンク