奈良 箸墓 ホケノ山 になにがみえたか?

「倭迹迹日百襲姫」って 読める? 07-Dec.11

ホケノ山 古墳

倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)ってなかなか読めない。「読めない!覚えられない!」この苦痛と戦うのが古代史に遊ぶさだめというものか。朝7時に岡山を出発し昼前に奈良大和の桜井市に到着した。まずは腹ごしらえに笠そばに向かう、ここは地域おこしでできた蕎麦屋さんだが、いつも多くのお客さんで賑わう繁盛店で笠山荒神の裏参道口の前にある。

この笠山荒神も由緒によれば3000年前の奉起で、倭迹迹日百襲姫は神浅茅原(カムアサヂハラ)で神憑りするが、この浅茅原はここ「笠」に比定されている、なかなかの重要ポイントだが今日はお蕎麦をいただいて即、山を下り箸中に向かった。

ホケノ山 古墳 に到着 

まずは、 ホケノ山 古墳に到着、箸墓古墳の裏手の線路をこえた国津神社の裏にその4mほどの山はある。龍王山のふもとの畑のなかにポッコリとあるこの凸がどうして「 ホケノ山 」なのだろう、そしてホケノって何?と思わずにいられない。右の写真は現代美術の作品にもみえるが、発掘現場を前方部に再現している図である。そんなこんなでそのテッペンから箸墓を眺め記念撮影をすまし車にもどる。地元の年配のご婦人が我愛車をみて「まあ、遠くから!」と声をかけてくれる「このへんは(古墳)多いからなあ!」と田舎らしい和みをくださった。

さて、つぎは箸墓古墳だが保育園のよこに停めて敷地にはいる。ここは陵墓参考地、宮内庁の管理下で管理人の建物まである。つまり、皇族に深く関係する古墓であると認めているわけだが、そこには世間に披瀝できない根拠というか歴史的資料をもっていると考えるのだが、いかがだろう。(無駄な論争がずいぶん減ると思うなあ!)

この古墳を中心とする纒向(まきむく)遺跡が3世紀前半?中頃の最古の前方後円墳を含む集落とされ邪馬台国ここにありと畿内説を有利とする根拠となっている。発見された土器も九州から東海までの広範囲の製品があり当時の権勢を示すものでこの地こそが邪馬台国であり倭迹迹日百襲姫が卑弥呼だという。だが、そう単純なものだろうか?

まず、吉備特殊器台が箸墓の頂部から発見されたという問題がある。当時の宗教感は現代の我々の感覚をはるかに越えて重要かつ中心的なものであったにちがいない。それをよその国(吉備)の借り物で祭祀を行うことなど考えられようか。畿内説では「多くの国邑の緩やかな連合体だったので各地の習俗、祭祀の手法を取り入れた結果である」というが、では中心となった大和(邪馬台国)のそれはいったいどこにあるのか?遠慮したのか?またこの付近に弥生後期の古墳に移行する前段の有力な弥生墳丘墓などが見つからぬことから、この地に突然現れたと考えられている纒向遺跡をどう説明するのだろうか。

HP「日本建国史」より「ホケノ山古墳は、桜井市箸中に位置する全長約80m、後円部径約60mの前方後円墳である。その西約200mには全長272mの箸墓があり、この箸墓より古い時代の築造とされる。更に北西約1kmには東田大塚、纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚など、全長90m前後の前方後円墳が存在する。いずれも後円部の径が60m前後で、ホケノ山古墳と近い年代の築造と推測されている。」作者である『自称:曲学の徒』さんは「邪馬台国畿内説」を唱える方だが、この古墳群の規模内容から、王墓と考えられるが築造年が卑弥呼在位中とすれば矛盾するといわれる。よって2世紀中(卑弥呼以前)に造営されたと結論されている。わたしも「在位中の築造は矛盾」には同感だ。

箸墓古墳全貌

箸墓古墳全貌

岡山市の古都(こづ)にある浦間茶臼山古墳はこの箸墓のちょうど半分サイズの相似形だといわれている。これを同一の設計図をもとにつくられたと説明されるが、それよりまったく同じ制作集団(担当者)ないしはその系譜の者によると考えるのが合理的ではないだろうか、つまり吉備でも奈良でも同じ勢力が建築したのだと。ちなみに倭迹迹日百襲姫は岡山神社の祭神でもある。

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