金甲山と 田村麻呂 のご縁? 07-June.5
つい先頃、京都の東(山科付近)にある西野山古墓が坂上田村麻呂のものであると特定された。(asahi.comより引用;2007年06月04日12時50分 平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)の墓を、京都大大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日本古代史)が文献調査で特定した。1919(大正8)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いという。田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」に墓の位置が記されていた。)
岡山の児島にそびえる金甲山はその田村麻呂が金の兜を奉納したとされる縁の山で古くからの神奈備山だが、今日は八浜の登山道(岡山の山百選より)から入った。しかし124鉄塔から先に道がない、本の通り東尾根方向に何とか入り多少の踏み後とテープを頼りにやぶこぎしながら進んだ。この写真は登ってきた道を振り返っているのだが道らしきものは見えない。
やっとこさで舗装道路に飛び出し、しばらく歩くと頂上に到着である。ここにはレストハウス(休業)の屋上が展望台となっており景色は瀬戸内から藤田興除の干拓地が見渡せる。さっき追い抜いていった若者ライダーのカップルが先客でいていろいろ話をした。若い衆相手におせをしていると、あとから来た三人組のうちの年配女性が素っ頓狂な声をあげた。「岡山の山百選があるわぁ?!」僕が無造作にリュックからほおりだしたままだったその本を見つけて叫んだのだ。なんとその三人組の一人がこの「岡山の山百選」(吉備人出版)の編者の福田さんその人であった。
さっそく、いま登ってきた道の話をする「道がありませんでした。」「そうでしょう!」(ドテッ!心の中でこける)。聞くと全国の日本百名山を去年車で回って制覇したそうだ、岡山の百山ももう一度登っていて現在86山とのこと。記念に本にサインと連絡先を書いていただき、迷ったら電話くださいとのことである。きょうは不思議なご縁の金甲山の一日であった。