美作國一宮 中山神社

美作國一宮 中山神社 07-Sep.24

中山神社 拝殿

美作國一宮の 中山神社 はその名のとおり津山市一宮にある。いまでは「なかやま」と読まれているが本来「ちうさん」「ちゅうさん」という音が正しい。その由来、由緒については
日本中の主な神社を網羅するサイト「玄松子の記憶」を参照してほしい。また、およそどの関係サイトでも創立に関しては以下のような解説である、『 中山神社 縁由』によると、本社の創祀は慶雲四年(707)四月三日であるという。 が、続日本紀には和銅六年(713)四月三日に美作国が備前国より分立したことを記しており、本社は美作国分立と共に本社が創始せられたのではなかろうか。理由として、旧吉備国から分立した備前国・備中国・備後国すべてが吉備国の守護神たる吉備津神社を奉斎している。 したがって美作国も吉備津神社を勧請してもしかるべきと考える。

つまり、吉備津神社から分かれて創立されたというのだがここがお味噌である。以前のログの「宮座山 古代祭祀遺跡」の項でも少しふれたが、この「ちゅうさん」のほうが吉備津神社の元ではないかというのが我説である。吉備津宮はもちろん吉備の中山(なかやま)の麓にあるわけだが地元中学はなぜか中山(ちゅうざん)中学だ。この考えのもとになっているのは池田弥三郎先生(慶応義塾)の説なのだが、この「ちゅうさん」の源泉を新庄の御鴨神社=宮座山と推論している。猿神社また最近知ったことだが現在の真庭市のなかでも八束、川上、新庄あたりを総称して「さんちゅう」(山中)と呼ぶ。

つまり出雲の国譲り伝説や蒜山高天原説にも関係するが出雲勢と高天原勢が合従連衡して製鉄文化をもって吉備に邪馬台国を治める流れを作ったと考えるられ、そのKeyPointにこの神社が位置するのだ。ちなみに御祭神は「鏡作神」で「鏡野」というこの地にふさわしいのはいうまでもないが、出雲の玉造と赤坂の布津御霊とあわせれば、これで「三種の神器」がそろうということだ。

また、今昔物語や宇治拾遺物語に「中山の猿神」として登場する
猿神社は、境内の後方50mの岩の上にあり、安産を願う
崇敬者の奉納した赤い猿の縫ぐるみが多く祀られている。

猿神社

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