権現山 古墳は播磨の御津にある 08-Feb.11
古墳の権威である近藤義郎先生の「発掘50年」によると、最後の持ち駒としてこの「 権現山 古墳」にたどりつくことになる。それまで、都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡が同一古墳内で共存しないことがつづき、それが何を意味するのか?という問題があったのだが、ついにこの古墳でその共存が発見されたのだった。
日生でいま旬の「かきおこ」を本日同伴いただいたH夫妻と堪能した後、一路兵庫県に向かった。相生の白龍城を室津方面にゆくと海沿いの景色のよい道がつづき揖保川の河口の「御津」に到着する。川の西岸をすこし遡ると「八王子権現(皇子神社)」がありここが目的地「権現山」の登山口だ。神社にお参りをすませさっそく裏手の遊歩道にとりつき約20分ほどでこの写真の説明板のある権現山51号古墳があらわれた。この小高い後円部を登るとさらに50m先に再び古墳頂があり、これが権現山頂上で50号古墳らしい。ここからの見晴らしがすばらしく眼下に瀬戸内海を見ることができ、古代には麓まで海岸が迫っていたのだと容易に想像させる。
「八王子権現(皇子神社)」の祭神は億計(おけ)王(後の仁賢天皇)弘計(くけ)王(後の顕宗天皇)で播磨ゆかりの23代24代の天皇である。雄略天皇に父(市部押磐皇子)を討たれため、播磨に逃れ後に清寧天皇の期に皇子に復帰を果たす。清寧崩御後、23代顕宗天皇に継がれる間、姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや、奈良県葛城市忍海の角刺神社が伝承地)で執政し、「忍海飯豊青尊」と称したという。このあたりの話はとんでもなくわかり難いのだが、系図をみると兄弟従兄弟同士が争い何人もが殺されてしまう。そして25代武烈につづき謎だらけの継体天皇へとつながる訳である。
近藤先生は都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共存が例外なのかそうでないかという問題というか宿題を残されたのだが、私は例外的であるのではと推察する。都月型円筒埴輪(吉備特殊器台型埴輪)に象徴される吉備系と三角縁神獣鏡の中国系との争いと妥協の歴史だと考えれば、この51号古墳がその妥協の産物なのではないだろうかと思う。
権現山頂上50号古墳