探検!古代 須恵器 窯跡 を求めて

古代 須恵器 窯跡 を求めて美和神社を出発! 2011 Feb.20

須恵器とは5世紀前半(古墳時代)に朝鮮半島南東部の伽耶地方から流入した新技術の陶器でそれまでの土師器から飛躍的に性能を進化させた。定説としては、大阪南部の陶邑(すえむら)窯跡群が、5世紀中頃初期最大のもので、6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られ、この岡山長船の須恵地区の窯跡群はその一つであると考えらる。しかし現在はそれより早い時期と思われる窯跡として北部九州(朝倉窯跡群etc.)、岡山県奥ケ谷窯跡、香川県三郎池西岸窯跡、大阪府吹田32号窯跡などが発見され、5世紀前半同時並行的に技術集団の流入があったと考えられている。現代の備前焼の元である。

kamaato_web_G_1備前焼作家、橋本勘介氏をガイド役にMasters Member A&A氏と県立大セラミッククラスの女子大生を加えて計7名、長船は西須恵広高山の頂上にある美和神社に到着、早速お参りをした。御祭神は大物主命で牛窓の語源ともいわれるエピソード(住吉大神の牛転び)の主人公でもある神功皇后が潮待ちのときに誤って海に転落した愛馬白鷹が犀崎(才崎)に上陸し、北に向かって走り須恵の山にたどり着き息絶えた、故にこの宮山を白鷹山(広高山のこと)と名付けたという伝説の残るお宮である。すばらしい展望の神社前駐車場から100mほど道を戻ると、さっそく本来のご神体である磐座があり一同お参り、すぐそばに三角点があるのでここが頂上ということらしい。

さらに下って行くとアスファルト道路に交差する形で古道(西須恵?尻海)がある。尻海方面に山道を下りてゆくとすぐにサザラシ一号墳への分岐、ここを古墳にも行かず南へ山を下っていく。しばらく行き谷筋になると沢が現る、石を積んだ人工物が沢の堰のような形で水がたまるようになっていた。そして確か三つ目だったと思うがさらにしっかりした石積みがあり、少しではあるが水が溜まっている、これがどうやら「美和ノ井」であるらしい。

kamaato_web_008美和とは神の意味であるから、この水源は「神の泉」ということである。現在は多くの雑木が茂ってはいるが、古代においてはきっときれいに整備されていて、やや緩やかなV字の傾斜に挟まれたこの沢で重要な神事が行われていたのだと想像する。

この沢の周りの傾斜地に複数の窯跡が存在するらしい、すでに確信があるのだろう勘介氏がすこし沢の中を進むとついに「ありました!」と土器(かわらけ)を一枚われわれに見せてくれた。みんな勇んでそこらにある枝のほどよいサイズのものをみつけ、ほとんど流れのない湿った沢の泥と石をほじくりかえした、するとさっそくA氏が次のかけらを発見した。どうやら窯のそばに捨てられた土器の破片が千年の時を越えて流されて沢のあたりにあるのだ。しかし、そんなに次々と発見されるわけでもなく、やっとみつかった物も黒く染まってしまっている。

須恵器 窯跡我々が沢と格闘している間に勘介氏は傾斜を登って上の方を探していた。「こっちにきてくださ?い」という声に大きな期待を胸に抱いて道なき道を薮こぎしながら十数メートル、全員で登った。そこには探すまでもなく多くの土器の破片が散乱していた、まさしく土器捨て場であった。形の残っているものはない、ことごとく割られた破片である、つまり捨てるために割るということらしい。捨て場というのは窯のそばだそうなので近くに窯跡があるかもしれない、みんなでそこらをさがしてみた。するとすこし登ったところに右写真の遺構を発見、どうやら窯の後部ということらしい。ここのあたりで皆最後?のかけら探しに望んだが、私はこの上がやけに傾斜が楽になって木もまばらなのが気になって上へ上へと登っていった。後ろをみると皆の姿は見えなくなり道に迷いそうな感じだが、先がますます歩き易くなってきたので止まる気になれず、あとすこしあとすこしと歩を進める。すると見覚えのある巨大な石の姿が見えてきた。なんとそれは前回の訪問のときにきた「サザラシ一号墳」の石室であった、これで位置関係がはっきりした。

このあとすこし沢を下ってみたが、やや大きめの石堤のところで道が途絶えたので今日のところはここまでということにして、スーパーのレジ袋二つに入った「かわらけ」を戦利品に帰路についた。勘介氏のお宅にもどり奥様に煎れていただいたお茶を頂戴して、かわらけを皆で分配した、学生さんは資料になるだろうとほとんどをあげたけど荷物になったっだろうか?そして登り窯などを見学させていただき本日の探検隊は楽しく解散した。

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