青谷上寺地遺跡

青谷上寺地遺跡 (あおや かみじち) 09 May 7

青谷上寺地遺跡 頭蓋骨

青谷上寺地遺跡 とは、鳥取県の鳥取市から9号線を20kmほど西に行った青谷という地区にある。国道から少し内陸にはいった処だが、国道バイパス工事に伴い発掘がおこなわれ、現在は埋め戻されている。そしてその近くに大変質素だが好感の持てる「青谷上寺地遺跡展示館(無料)」がある。

出土品には、多量の土器をはじめ、容器や建築材などの木製品、漁撈(ぎょろう)具や装身具などの骨角製品、工具類などの鉄製品や石器などの多種多様なものがみられる。これは、遺跡が低湿地にあり、厚い土の中で真空パックの状態に置かれていたため、その残り具合が大変良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といわれている。

さらに、青谷上寺地遺跡の弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流している。九州系や北近畿系、吉備地方の土器、石材もこの近辺の石材だけではなく、新潟産のヒスイや瀬戸内産のサヌカイトなどが使われている。また、360点を超える鉄製品や、古代中国の貨泉(かせん)が出土したことによって、海を渡り北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との交流も行われていたことが想像できる。このことは、青谷上寺地遺跡が単なる村ではなく、海上交通の重要拠点だったということだ。

遺跡の東側の溝では、弥生時代後期の約5,300点の人骨が見つかり、中には110点の骨に殺傷痕(写真)が見られた。これは、平和に暮らしていた村が、一気に奇襲攻撃をされて乗っ取られたことを意味している。通常の戦争であれば、順々に墓に埋葬するだろう。つまりこれは異文化の侵略であり、この青谷がいかに重要な拠点であったかという証明でもある

琴 側板

さて、左の写真は「木製の琴の側板」で弥生中期後葉というから、この村の滅亡前の幸せな時期のものである。まず、この模様に注目して頂きたい。なにやら四つ足の動物が描かれている、みなさんにはいったい何に見えるだろうか?角がぐるっと回っている動物といえば、私には「山羊か羊」にしか見えないのだが、この動物をある程度特定している文書はない。なぜ羊でないかといえば「この時代(弥生)の倭国に羊は存在しなかった!」ということなのだろう。しかし、そんな単純なものだろうか?前々項でも触れたようにこの時代の中国にはシルクロードを通じて多くの外国人(ユダヤ)が絹を求めて出入りをしていた。そのユダヤ商人が絹や不老不死の薬を求めて足をのばし倭国まで来ていたことは、そんなに大層な想像力を働かさなくても解る。そう、羊はユダヤ商人にとって神の使いなのだ。

この青谷の地から西へ10kmほど行くと東郷池があり、その水面を望む小高い丘に伯耆一宮の「倭文神社』がある。さらにその先の倉吉の志津にも倭文神社(三宮)が、そして山を越えて南下すると美作久米の倭文神社へと続く。つまり当時の文化最先端地である出雲、吉備の倭絹(倭文)を集荷して青谷から半島へ出港するというそんな絵が浮かんでくる。

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