謎の 神宿 を訪れる!

神宿 (かみじゅく)は岡山最高レベルの謎ゾーンだ!

神宿

今日は念願であった、神宿と平福を訪れた。湯郷を過ぎて林野を作東町方面に右折する、5kmほどで平福郵便局がありそのちょい手前の信号交差点のさらに100mほど手前の山側の斜面が平福の陶棺で有名な野寺山古墳のあった場所だ。まさしく「あった場所」としかいいようのない状態で地元の墓地の上に写真のような説明看板があるのみである。

神宿

看板の文面「野寺山古墳」

「明治29年に陶棺が出土した。陶棺は赤色の地膚で切妻造屋根型の蓋をのせた長方形で前面に浮彫りされた絵は牧歌的な雰囲気が伝わる数少ない古墳後期の貴重なものである。この陶棺は現在東京国立博物館に展示されている。」

展示されているかどうかは確認していないが、所蔵されているのでリンクの写真をご覧いただきたい。

この平福からくだんの交差点を北上して姫新線と中国道を越えたすぐのところが神宿だ。まずは紙老虎的世界のこのページを参考に一読していただくとよく解る。このように深く「中山」について考察していることには、おおいに敬意をはらいたい。特に(3)のページにこの神宿についてのリポートがあり、これを体感したいがための今回の訪問である。この集落には写真のような独特の小さな社殿のような建物を庭先に持つ家が数件あり、すべて東内(藤内)家である。以下、紙老虎的世界内の「作陽誌」の引用をさらに引用させていただく。

鉾殿この東内家の殿舎?その姿と「中山太神宮」の札から,一見「中山神社の元宮」ではないかと思ってしまうのだが, 実は神そのものではなく矛を祭るための特別施設なのである。

藤内家書記如左 是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。 先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者 先年(神の)御宿を申し候につき, その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。 六郡の内‥‥云々‥。  
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。 棟を別にして方二間半ばかり。 藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。

矛殿に関する『作陽誌』の記述
夏秋二度初穂取六家
藤内日向(受領の家) 藤内源太郎 藤内長大夫
藤内勘大夫 (受領の家) 藤内主計 藤内三大夫

一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。 その祭祀最も奥秘の神事とす。 世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。 その法は石基を四方と中央に安して, 各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う。 そ の中央の石今苫南郡小原に遺る。この村の藤内家,五家有りて各矛殿を斎き祭るは, 所謂(いわゆる)五座の鉾にして,そのことに預かる務 めあるゆえ,すなわち己の宅に矛殿を勸請したるなるべし。 ‥云々‥。

作陽誌(上)  昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。 藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。既にして神苫田郡霧山に入る。
作陽誌(下) 山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留 同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記   昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥云々‥。
津山市史(1)中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。この神を斎き祭ったの楢原の東内氏であり,東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。それより以後東内氏は東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り,云々‥‥。

中山大明神文武天皇慶雲三年というのは西暦706年(飛鳥時代末期)なのだが、この年この楢原邑(神宿;神さまが逗留したから)に中山神が現れて、4ヶ月後には津山に移動したという。そしてそこが現在の中山神社というわけだ。その中山神社に伝わる奥義に5本の鉾を祀る儀式がありその鉾を収蔵管理しているのが楢原の東内家というわけである。しかし、そのことを東内家(写真の鉾殿のある家)の大奥様に尋ねたところ「今は何もしておらん」という不可解な返事であった。簡単には信じられないという印象を持った。ちなみに「なかやま」ではなく「ちゅうさん」がオリジナルの発音である。

中山大明神 鉾殿

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