物部 氏についての考察 その4 前方後方墳 の謎

物部 氏と 前方後方墳 について考える

主に 弥生時代 後期末 から 前方後方墳 の 祖形 である 前方後方形墳丘墓 が 造られ 始め 古墳時代 前期前半 に 東日本 ( 中部 ・ 関東 地方 )で 前方後方墳 がよく 造られる。 西日本 の 前方後円墳 の 世界 に 対し、 東日本 は 前方後方墳 の 世界 であったと捉えることができる。なお、100メートルを超える規模の大きな前方後方墳5基が大和に集中し、あとは下野に2基、上野・越中・美濃・駿河に1基ずつ存在する。1つの説として、政治勢力としては、西日本は邪馬台国を中心とした政治連合であり、東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であったが、東の狗奴国中心の連合は、西日本の邪馬台国連合ほど強固な連合ではなかったとするものがある。また、この濃尾平野の勢力は、『魏志』倭人伝に記載のある倭の女王卑弥呼の邪馬台国と闘った狗奴国との関係を想定する学者もいる。日本列島には約500基の前方後方墳が存在する。
Wikipediaより

前方後方墳のイメージ
前方後方墳のイメージ

前方後方墳についてWikipediaの著者(編集責任者は存在しないのでWikipediaを鵜呑みにしてはならないのが常識である)は、東日本の文化のように捉えているが、古墳の場合その築年代や大きさ質を区別して考えなければ数が多いだけでは何ともいえない。典型的には右の図をとおり前方部がばち型の四角で後方部がやや几帳面な四角である。ときどき図の上のほうが前部といったほうが自然だと思われる方もいらっしゃるが、それは上から見たときのイメージでそう感じる訳で自分の寸法で見てみればやはり手前が前部なわけです。(判り難い?)
この形は前方後円墳と同様に弥生末に現れるので、同時に発生してなおかつ趣旨がちがうのだと考えるが、Wikipedia(本文)をご覧になってお判りのように「この型が何を意味するのか?」は議論百出で謎のままなのだ。「物部氏についての考察」なのだから、ここで私は物部氏と前方後方墳が何らかの関係があるのではないか?という趣旨で論をすすめて見たい。

ヒントをくれたのは、あの「タモリ!」だった

TVで「ぶらタモリ」という番組をやっていた、森田一義さんらしい街歩き発見番組でお気に入りである。その日は東京府中、冒頭にこの「大国魂(おおくにたま)神社」が紹介され、府中というのがこの神社を中心に成り立っているのだと直感した。

大国魂神社 東京府中市
大国魂神社 東京府中市

府中という地名は律令制の国府のなごりであるが、大国魂とは饒速日命で大物主であると考えはじめていたのですぐに「国府と大物主」の関連性がアイデアとして浮かんで来たのである。つまり当時の行政の中心である国府には大物主が祀られていたのでは?という仮説だ。もちろん直接的な因果関係でないにしろその地域の栄えた場所に大物主がいたとなればその意味は大きい。さっそくいろいろ当たってみた

  • 岡山 総社市;麻佐岐神社(大物主)
  • 岡山 岡山市国府市場、四御神;大神神社(大物主)
  • 岡山 赤磐市馬屋、岡山市牟佐;高蔵神社(天火明;物部)

と、ここで気が付いたのが本題である「前方後方墳」だ。四御神;大神神社の背後の山(竜の口山)の中腹にはあの有名な「備前車塚古墳」、そして麻佐岐神社の中腹には今注目の「一丁ぐろ古墳」でどちらも初期の大型前方後方墳である。つまり、国府との関係もさることながら大物主( 物部 氏)と前方後方墳の間に何らかの繋がりがあるのではないだろうか?
そこで、目を少し岡山以外に向けてみよう。まずは最大前方後方墳の西山古墳(にしやまこふん;183m)、奈良県天理市御経野町・勾田町・杣之内(そまのうち)町にある古墳で、1927年(昭和2年)国の史跡に指定。ここは天理参考館の南約500mに位置し布留遺跡に隣接というか属しているといってよい。つまり石上神宮の神域でもろに 物部 氏だ。
次いで元稲荷古墳(京都府向日市)、ここも有名だが特殊器台形埴輪が出土しおり向日神社の神域で大歳神を祀る、この大歳神も饒速日命と同一とされている。
もちろん、一部の例だけを出して結論を得ようとするのは危険だろうが、1800年程が経過して多くのものが雲散霧消している今、ある一定の規則性があることを見過ごさない感覚の方が重要なのではないだろうか?

出雲の前方後方墳

山代二子塚古墳(地下展示)出雲意宇郡 物部 氏と 前方後方墳
山代二子塚古墳(地下展示)出雲意宇郡

出雲も前方後方墳の多いところだ。前方後円墳よりも大きさ数において目立つことから出雲が前方後方墳の発祥と考える人も居られるようだ。写真は出雲最大の山代二子塚(墳長94メートル、6世紀中葉、出雲最大)の地下である。このほか「八雲立つ風土記の丘」にある岡田山1号墳などが有名だがその多くが松江近郊エリアつまり出雲意宇郡に集中している。意宇郡とは出雲国庁が置かれたところでその中心的神社は私が前項で 物部 ではないかと考えている「神魂神社」なのだ。

このように前方後方墳が一定以上の率で物部所縁の地に存在することから、「 物部 氏と前方後方墳の直接的関係が強く疑われる」というのが今の私の考えである。
[print_link]

One Reply to “物部 氏についての考察 その4 前方後方墳 の謎”

  1. 「この大歳神も饒速日命と同一とされている」とありますが、これは疑問です。よく見かける同一性ですが、納得できる根拠を教えてくれる人がいません。
    どこにその同一性を主張している資料があるのか、その根拠と資料出所を教えてください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください