大田田根子 とは 変わった 名前 だな と思う。崇神天皇記 に 登場 す 大神 (おおみわ) 神社 の 初代 神官 である。
崇神記によれば崇神5・6年に疫病が流行り、死亡するものが多く、百姓は流離・反逆し、世情が不安定となった。天皇は御殿に祀っていた天照大神と倭大国魂の二神を、豊鍬入姫命(とよすきいりびめ;崇神の娘)と渟名城入姫(ぬなきいりびめ;崇神の娘)とを御杖代として別々に祀ったがうまくいかなかった。神浅茅原で倭迹迹日百襲姫命が神懸かり、大物主神を祀るようにとのお告げを得、さらに、天皇と臣下が「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」という同じ夢を見たという。天皇は広く探させ、茅渟県の陶邑に大田田根子を見つけた。天皇が素生を聞かれると、大田田根子は「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です。」と答えている。また別に「奇日方天日方武茅渟祗の女」とも言われているとある。大田田根子を祭主として大物主神を祀り、長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ることで、疫病ははじめて収まり、国内は鎮まった。そして、大田田根子は三輪君らの先祖であるとしている。
なるほど、いろいろなエピソードが含まれているけれど、多少ほかのエピソードと時間軸的には多層化してしまうのでそのあたりはスルーして考えたい。つまりは大田田根子は茅渟県の陶邑出身で大物主の血筋であると紹介されている。また古事記では河内の美努村(大阪府八尾市近辺)出身となっているが、いずれの場所も物部所縁の土地だと私は考えている。なぜなら河内は弥生時代後期に大変発達したエリアで後に全国展開する庄内式土器の発祥地とされているのだ。特殊器台を物部祭祀の象徴とするのが素直な議論だと思うが、当然日常の土器生産と特殊器台は同一技術集団の仕事と考える。此の地「河内の美努村」は土器の生産地だったわけだが前にも述べた通りここに吉備の土器が現物ととものその最高の技術が流入しているのだ。その中にはあの吉備特殊器台も含まれている。また美努村はミノと発音し吉備の御野郡(現岡山市)と同じ名であるのも興味深い。
また、一方の茅渟県だが大阪南部の泉北ニュータウン内にある古墳時代の須恵器窯跡群が最古最大とされており、ここが茅渟県の陶邑と考えられている。ただ時代的には崇神とはあわないので、日本書記が編集された時代の錯誤である可能性もおおいにある。いずれにしても大田田根子は土器の邑出身、つまり物部なのではないのか?というのがこの章の論点である。
大物主が謎の存在であることは古代史趣味の方であれば周知のことと思うが、額面どおり大国主の別神格であると考えるには疑問が多い。原田常治氏の大物主=饒速日命論は大変ショッキングではあるものの、櫛甕魂(くしみかたま)と櫛玉(くしたま)の音の類似が根拠というのが残念な感じである。しかし多くの方が大物主=饒速日命同一論に共感するのは、それぞれに思い当たる所があるからだろう。大田田根子が物部だとすれば、物部縁の大物主=饒速日の祭主になるというのも頷ける話なのだ。
大田田根子はどう読む?
「おおたたねこ」はてっきり「おおた:たねこ」という女性だと思っていた、しかしどうも違うようだ。どうやら「おお:たた:ねこ」ということらしい、しかも男性?となると後に登場する古事記の編集者、太安万侶や多氏などと同じ「おお:し」ということである。また、大田という地名「おお:の:た」これで気になることがある。かの纒向遺跡、言うまでもなく邪馬台国の女王卑弥呼の都跡と言われているが、これが当初は大田遺跡と呼ばれていた。なぜなら大田という字から発見発掘が始まったからだ。まあ大神神社のエリア内なので当たり前の名前といえばそれまでだけど、これが物部だと考えれば納得できる。写真は石見型楯形埴輪と言われる埴輪で、円筒埴輪の全面にこの奇妙な楯が張り付いている形でこの近くの石見遺跡の出土である。この楯と思わいれる部分には特殊器台と同様に縄のような曲線と綾杉紋で呪術的な模様が施されている。この発見は石見(いわみ)という場所からなのだが、ここでこの二つの地名から気がついた事がある。「石見、大田」といえば島根(石見国)の大田市、言わずとしれた物部神社のある物部縁の濃いところだ!石見と出雲は敵対関係にあり、私が物部出雲論を否定する一つの根拠でもある。さらに申せば出雲の東のエリアは意宇郡(おう:おお?)で西の石見と挟み撃ちの形だ。
前項でも述べた通り、意宇郡は特別なエリアであると感じる、特に後の国庁ができる現在の六所神社から神魂神社にいたる大庭(おおば)には巨大な前方後方墳;二子塚などの大庭古墳群があり並々ならぬ地区だ。この中心施設である神魂神社が出雲國造家所縁の地であることも考えあわせると出雲の謎も少しずつ解けてくるような予感がする。つまり出雲国造家(千家、北島両家)が2000年もの間「杵築大社」で大国主を守ってきたという事実からどうしても忘れがちになるのだが、租神「天の穂日」はまぎれもなく天孫の系譜なのだ。
先日のGWに訪れた出雲で思わぬ収穫があったので少しここで触れておこう。連休のまっただ中なので出雲大社を避けるようにめぼしい神社を巡っていて長浜神社に到着した。宮司さんがいらっしゃったので少しお話をしていると珍しい名前を聞いた、衝桙等乎而留比古命;つきほことおるひこである。この神は出雲風土記に登場する須佐之男命の子で写真の多太神社に祀られている。この時の話題はこの珍しい名の神様が吉備の神社にも祀られていて出雲と吉備の関係に大きなヒントをもたらすのではということだった。そのことはまた後にするとして、ここで問題にしたいのはこの神社の名前である。風土記には「秋鹿郡多太郷」となっており、読みは「たた」である。同名の他地域の神社をググってみると何社か畿内にヒットするがなんとこれが「大田田根子」を祀っているのだ。これを素直に読めば、衝桙等乎而留=大田田根子は同一神でしかも須佐之男命の子ということである。ちなみに出雲風土記では須佐之男命は神須佐乃烏命と表わされており、しかも従来のような大国主との血縁はないことになっている。
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